【宗教リテラシー向上委員会】 愛着のありかと行き場 波勢邦生 2020年6月1日
『ロビンソン・クルーソー』に代表されるような「無人島文学」と言える作品群がある。池澤夏樹『夏の朝の成層圏』は、タイトル通りの読後感があり素晴らしい。ハリウッド映画ではトム・ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』(ロバート・ゼメキス監督、2000年)がある。巨大物流会社の社員として世界を飛び回っていたサラリーマンが墜落・遭難して無人島生活を余儀なくされる。主人公は、バレーボールに「ウィルソン」という名前をつけて話し相手とし、4年を過ごす。脱出を試みるも嵐に巻き込まれ、筏はバラバラになり、ウィルソンは眠っている間に波間を漂いながら離れていく。主人公は何とか取り戻そうと手を伸ばすが、届かず、諦めて慟哭する。本作屈指の名場面だ。奥深く美しい余韻を残す作品なので、ぜひ視聴してほしい。
無人島で4年サバイバルした男にとって、バレーボールは、間違いなく親友であり家族だった。絶対的孤独の中で助けてくれた唯一のイマジナリ・フレンドが「ウィルソン」だった。果たしてキリスト教は、このような現象をどのように扱えるだろうか。仏教ならば「~供養」として手厚い区切りをもたらせるのだろう。しかし、キリスト教はどうするだろう?
東スポweb(5月6日)が、これと同じ問いを深めるニュースを伝えている。「処分しない!ニューハーフ僧侶による『ドール葬儀』登場」と銘打たれた記事(https://bit.ly/3euXqwG)だ。「ラブドール」は、性を目的として作られた等身大の人形である。「ダッチワイフ」との差は皮膚の質感にあり、それゆえ高価でもあるそうだ。言うまでもなく「性」は人格とつながっている。だから、このような弔いのあり方が現れる。
しかし、キリスト教は問わざるを得ない。人格なき物体への執着は悪や罪ではないのか。心・霊・魂なき被造物、人がいない世界、人格なき対象物への愛着や願いをどう扱えばいいのだろうか。この問いの前に「キリスト教は弱いな……」と思ってしまう。いわゆる「ライナスの安全毛布」のような、本人以外には無意味に思える「愛着」への優しさにおいて弱いように思う。例えば上掲僧侶のような活動は、おそらく教会では到底不可能だろう。「早く人間の伴侶を見つけて、ドールは焼却するように」と祈り奨めるのではないか。
もちろんキリスト教にも様々ある。カトリックの聖体、正教会のイコンなどは宗教学的にはフェティッシュなもの(呪物/物神崇拝)だろう。ただ、プロテスタントは聖書一本槍だから、物体への愛着には手厳しい。その割には、資本主義の走狗になるほど物欲にまみれた消費社会と親和性が高いから、よく分からない。物と人。それを介在する記憶。愛着のありかと行き場、その宛先に「教会」や「天の御国」が入ることはないのだろうか。この僧侶のように「悲しむ人と共に悲しめる」教会とドールオーナーが笑って話せる日は来るのだろうか。
ヨハネによる福音書が思い出される。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8章7節)。一説によれば、この箇所は後代の追加らしい。しかし強力な伝承ゆえに、聖書本文に挿入されたという。性的愛着ゆえに罪とされた人、他人からも自分でも石を投げ続けた人々。そこで「イエスは身を起こして言われた」。赦せ、と。
洋上の遭難者のような孤独において、なお深く内奥に残る自他、事物への愛着が漂っている。宛先はどこにあるのだろう。
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科単位取得満期退学。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。