【夕暮れに、なお光あり】 嬉しかったこと 渡辺正男 2020年7月21日
これまでの歩みを振り返ると、失敗したこと悔いることが多くあるのですが、でも、嬉しかったこと、支えられたことも少なくありません。
私は、神学校の学生の時に、伝道実習のために約半年、浜松市郊外にある浜北教会に遣わされました。指導教師の伊藤恭治牧師から、「近くの二俣に行き、高校生を対象に聖書の集いをしてみなさい」と課題を与えられました。二俣というのは、浜松のすぐ北の天竜市のことです。
二俣の公民館を借り、「聖書の集い」のチラシを用意して、二俣高校の前で配りました。女子高校生が2人来ました。週に一度集いを持ったのですが、2人の高校生は一度来たきりでした。私は、その2人に何度か案内のハガキを出しました。でも、その後は姿を見せませんでした。
高校の門の所で何度も何度もチラシを配りましたが、その後だれも来ませんでした。3カ月、毎週公民館でじっと待っている。誰も来ない。その時のわびしい思いをよく覚えています。
20年以上も経ち、国分寺教会の牧師であった時のことです。御殿場教会の礼拝説教を依頼されました。礼拝が終わって、皆で食事をしていると、子どもを連れた女性が、懐かしそうに話しかけてきました。「先生、このハガキを見てください」と言って、彼女は数枚の古ぼけたハガキを差し出しました。それは、二十数年前の、二俣での「聖書の集い」の案内のハガキでした。彼女は、二俣の「聖書の集い」に一度だけ来てくれた高校生でした。「先生から何度もハガキをもらい、いつか教会に行こうと思いました。今は、御殿場教会の会員です」と話してくれました。
私は、言葉もありませんでした。労多くして実り少ない人生と、長年つぶやいてきました。でも、この愚痴の多い歩みも、主なる神の温かい計らいの中にあるのではないか――そのことを、この時理屈ではなくて、体験として教えられました。心の底を支えられる嬉しい出来事でした。
今なお、自分の人生はこれでよかったのか、と悔いること度々であります。けれど、御殿場での出来事は、まことに温かいものでした。私たちの迷い続きのささやかな人生も、主の慈しみの御手の中にある、と言わねばなりませんね。
「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」(コへレトの言葉11:1=新共同訳)
わたなべ・まさお 1937年甲府市生まれ。国際基督教大学中退。農村伝道神学校、南インド合同神学大学卒業。プリンストン神学校修了。農村伝道神学校教師、日本基督教団玉川教会函館教会、国分寺教会、青森戸山教会、南房教会の牧師を経て、2009年引退。以来、ハンセン病療養所多磨全生園の秋津教会と引退牧師夫妻のホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝説教を定期的に担当している。著書に『新たな旅立ちに向かう』『祈り――こころを高くあげよう』(いずれも日本キリスト教団出版局)、『老いて聖書に聴く』(キリスト新聞社)、『旅装を整える――渡辺正男説教集』(私家版)ほか。