【日本人のみたキリスト教「今昔」】第5回 「集まることより散ること」哲学者・川原栄峰 2020年9月11日
オリエンス宗教研究所は、1948年以来、カトリック修道会「淳心会(1862年創立スクート会)」が運営する研究・出版団体である。『共同訳聖書』発行で活躍した。またミサの手引き「聖書と典礼」の発行元として知る人もあるだろう。
本連載は、同所発行の鈴木範久/ヨゼフ・J・スパー共編『日本人のみたキリスト教』(同所、1968年)を手がかりに、社会にある教会の「今昔」を問う。本書の前半部分で、1968年、著名な学者12人が以下四つの質問に答えている。
1.今までに日本のキリスト教とどのような関係があったか?
2.キリスト教が日本社会で果たしている役割とは?
3.日本でのキリスト教低迷の原因とは?
4.今後、日本のキリスト教の課題は?
半世紀以上前に語られた「外側からみた日本のキリスト教」という提言、またそれに伴う問いかけに、いま次世代の教会はどのように答えられるだろうか。
第5回 哲学者・川原栄峰(1921~2007年)
川原栄峰(1921~2007年)は主にハイデッガーを研究した哲学者だ。早稲田大学などで教鞭を取り、真言宗権大僧正に任ぜられた。徳島の真言宗の寺に生まれ、「自覚的な仏教徒」であると言うが、「1. キリスト教との関係」は無関係でいられないと述懐している。自身の研究対象ハイデッガー、またニーチェをキリスト教との接点として挙げている。
また知人の神父や牧師、クリスチャン学者らを尊敬しており、ドイツでは「敬意を表」すために礼拝に出席した。「私は自覚的な仏教徒ですが、いつクリスチャンにならぬとも限らないと思っています」との言葉に込められた深い敬意には驚かされる。
一方、「2. キリスト教が日本社会で果たしている役割」については「宗教の社会的役割はあまり関心がありません」とまとめてしまう。社会的役割とは、日本社会との相対的な関係に留まるものであって、「そういうものでキリスト教を評価することはできません」とする。社会事業などによってキリスト教が「拡まれば必ずうすま」る、と宗教の浮き沈みを知るからこその視点を覗かせている。
「今日の仏教の課題が、第二第三の親鸞、道元が出るか否かにかかっているとすれば、キリスト教では、第二第三の内村鑑三が出るかどうかが問題でしょう」。川原によれば、親鸞、道元、内村には「ほんものの仏教」「ほんもののキリスト教」がある。言い換えれば、あくまで思想家としての宗教家に興味があるようにも見える。
「3. キリスト教低迷の原因」については三点を挙げる。まず日本仏教の伝統を前提として受け入れて、「仏教をよけるのではなく、それと戦ったらどうでしょうか」と提案する。
次に、川原は、日本のクリスチャンの傾向を「何か仲間で固まる感じ」と指摘する。つまり、「仲間で固まるよりは、むしろ散らばって、一人で神の前に立つ」ところにキリスト教の本質を見ている。
実際、川原が、ある学生セミナーに助言者として出席したおり、学生の要望に応えて、クリスチャン教師らの提案で賛美歌を歌うことになった。しかし、クリスチャンでない者への配慮がなかった。「今まで、クリスチャンはほかの人のことも考える、大変思いやりに富んだ人であると思っていましたが、どうもそれは誤解だった」と伝えたという。
加えて、キリスト教系の新興宗教について「明らかにインチキ宗教に近いものが多い」ので「何とかした方がいい」とも述べ、これらに低迷の原因を見ている。
「4. 今後の課題」は、「孤独で神の前に立つ」「第二第三の内村鑑三」の輩出することに加えて、公立学校での宗教教育だという。「じいさんばあさんの仏教を見て、頭から宗教とはそういうものだと考えてしまっている」若者に対して、教育によって「宗教への偏見」にバランスを与えることが肝要である。そのような偏見は「自分の真剣な生き方までそらしてしまう」からだ。宗教に真摯に向き合うこは、まさに親鸞や道元、内村が取り組んできた問題であり「そういう人々の足跡を教えないことはない」と、力強い。
川原は問う。「集まるよりも散ること」は、キリスト教がキリスト教であり続けるための取捨選択の本質ではなかったか。たしかにヒューマニズムも民主主義もキリスト教を揺籃とした。しかし「それがあるからキリスト教は価値ある宗教だとみるのは、本末転倒」ではないのか。
半世紀を越えて静かに響く、その指摘に滲むのは、川原のキリスト教への期待と受け止めたい。
文・写真 波勢邦生/編集部