【ヘブル語と詩の味わい⑦】 「『並行法でない』詩? 」、コラム③「ウガリト語」 津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師)
前回、「並行法」とは、基本的には「二行で一つの思想を表す言語表現である」と定義した。例えば、詩篇103:1
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名を。
のように、翻訳によっても、一行目と二行目が並行関係にあり、全体として一つのことが語られていることが分かる。
では、次のような場合は「並行法」と言えるのだろうか。
詩篇103:6
主は 義とさばきを
すべての虐げられている人々のために行われる。(新改訳2017)
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。(協会共同訳)
これは「並行法でない」(non-parallel) 詩なのではないか。
これはヘブル語の原文の語順を見れば分かる。原文を語順どおりに訳せば次のようになる。
行われる 正義を 主は
ʿōśēh ṣədāqôt YHWH
そして公正を すべて虐げられている者のために。
ûmišpāṭîm ləkol-ʿǎšûqîm
このように見れば、原文において「正義」と「公正」が並行法において対応していることが分かる。並行法での対応関係が分かるように訳すか、「正義と公正」が「二つで一つ」を意味する二詞一意 (hendiadys) となっていることを訳語に反映させるか。新改訳2017も協会共同訳も後者の立場を採り訳している。
では、詩篇19:14のような場合はどうだろうか。
私の口のことばと 私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。
主よ わが岩 わが贖い主よ。(新改訳2017)
私の口が語ることと心の思いとが
御前で喜ばれますように。
主よ、わが大岩、わが贖い主よ。(協会共同訳)
これは三行で単文を構成している場合であるが、訳文を見る限り、「並行法」とは言えないのではないか。しかし、ヘブル語の語順どおりに
受け入れられますように。私の口のことばが
yihyû lərāṣôn ʾimrê-pî
私の心の思いが 御前に
wəhegyôn libbî ləpāneykā
主よ わが岩 わが贖い主よ。
YHWH ṣûrî wəgōʾǎlî
訳すと、三行間の並行関係が明らかとなる。2行目の「心の思い」は1行目の「口のことば」と共に同じ文法構造を持ち、互いに対応しているだけでなく、二詞一意の表現であって、その人の「内と外」の全存在のことを指していることが分かる。このように二詞一意が二行に振り分けられる例は、ヘブル詩においてしばしば見られることである (例えば、詩篇2:4の「笑う」と「嘲る」、57:10の「恵み」と「まこと」)。
さらに、このヘブル語本文の音声的側面に注目すると、三行の間に音声的並行法 (phonetic parallelism), -û lə-ôn –î // -ôn -î lə– // -î -î, が見られる。
このように、翻訳では詩行間に並行関係がないように見えるが、原文には巧みな対応関係があり、一つの単文が二行~三行の並行法で見事に表現されている。文法は、この場合、詩の文法らしく「垂直的に」(vertically) 機能している。ヘブル詩は「すべて」並行法で記されていて、「並行法でない」詩は存在しない、と私は考えている。
[コラム] “ウガリト語”
ヘブル語に近い北西セム語の一つ。1929年以来、北シリアの沿岸部に位置するラス・シャムラ遺跡 (ウガリト) から、楔形アルファベト文字(合計30文字)で書かれた数千枚の粘土板文書が発見されている。
旧約聖書の背景にあるカナンの文化と宗教を知るためには不可欠の一次資料である。バアル神話や英雄叙事詩、儀礼文書の他に、パンテオン・リスト、魔術文書、経済文書など多種多様な文献が出土している。特に詩の「並行法」の技法は、詩篇をはじめとするヘブル詩の研究のために有益な情報を提供している。(『新改訳2017』の巻末「地図2」参照)
つむら・としお
1944年兵庫県生まれ。一橋大学卒業、アズベリー神学校、ブランダイス大学大学院で学ぶ。文学 博士(Ph.D.)ハーバード大学、英国ティンデル研究所の研究員,筑波大学助教授を経て、聖書神学舎教師。ウガリト語、 旧約聖書学専攻。聖書宣教会理事、聖書考古学資料館理事長。著書に『創造と洪水』『第一、第二サムエル記注解』など。