【ヘブル語と詩の味わい⑧】 「一行詩 」 津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師)
<一行詩 >
二行詩にもう一行加わって「三行詩」になる場合があることは十分考えられるが、一行少ない「一行詩」のケースがあることはあまり意識されていない。そのような場合が多くあるわけではないが、特別な主張があるような時に、一行詩が用いられている。例えば、詩篇の冒頭である。
詩篇18:1
わが力なる主よ。私はあなたを慕います。(新改訳2017)
この節は、詩篇冒頭の節として、全体の良き導入となっている。
詩篇103:1aの「わがたましいよ 主をほめたたえよ。」は、すでに見たように、22節cでも繰り返され、この「一行詩」が詩篇103全体のインクルージオを構成している。
一方、詩篇23:1は、訳文では新改訳2017、協会共同訳ともにあたかも二行詩であるかのようにレイアウトされている。
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。(新改訳2017)
しかし、ヘブル語原文の
YHWH rōʿî lōʾ ʾeḥsār
は、詩篇冒頭の一行詩として理解する方が適切である。
ここでは、三語からなる詩行を二つに分けて二行詩とすることは不可能であるゆえ、一行詩と分析する以外にはありえない。訳文では、従来からのレイアウトが保持されているのが協会共同訳、新改訳2017は、一行詩であることを訳文でも表そうと訳している。
主よ、あなたは私を調べ
私を知っておられる。(協会共同訳)
主よ あなたは私を探り 知っておられます。(新改訳2017)
このように詩の冒頭で、詩全体の主題とも言えることが一行詩で表明されたり、あるいは最後のところで (例えば、150:6a)、詩の終わりが一行詩で簡潔に述べられたりする。また、途中で一行詩が来る場合は、それまでとそれ以後との「連結」や新しい段階への「移行」や「転換」における「蝶番」の役割を果たしている。例えば、詩篇92:7-9における8節では、8節は一行詩として、7節の三行詩と9節の三行詩の間に置かれていて、丁度、7節から9節への移行の役割を果たしている。
7 悪い者が 青草のように萌え出で
不法を行う者が みな花を咲かせても
それは彼らが永久に滅ぼされるためです。
8 主よ あなたは永遠に いと高き所におられます。
9 主よ まことに今 あなたの敵が
まことに今 あなたの敵が滅びます。
不法を行う者はみな散らされます。(新改訳2017)
二行詩と二行詩の間に挟み込まれた一行詩の役割は、雅歌5:6等にも見られる。
愛する方のために戸を開けると、
愛する方は、背を向けて去って行きました。
私は、あの方のことばで気を失うばかりでした。
あの方を捜しても、
見つけることができませんでした。
あの方を呼んでも、
あの方は答えられませんでした。 (新改訳2017)
つむら・としお
1944年兵庫県生まれ。一橋大学卒業、アズベリー神学校、ブランダイス大学大学院で学ぶ。文学 博士(Ph.D.)ハーバード大学、英国ティンデル研究所の研究員,筑波大学助教授を経て、聖書神学舎教師。ウガリト語、 旧約聖書学専攻。聖書宣教会理事、聖書考古学資料館理事長。著書に『創造と洪水』『第一、第二サムエル記注解』など。