【ヘブル語と詩の味わい⑫最終回】「詩篇23の翻訳」津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師)

最終回

「詩篇23の翻訳」

 『新改訳2017』の翻訳にあたって、詩篇23篇のような、誰もが暗唱している詩篇の訳文を変更することは危険だからやめておいた方がよい、と何度も忠告を受けた。

 確かに英語訳では、詩篇23篇の訳は欽定訳 (KJV) 以来400年以上内容的には変わっていない。KJVの流れを汲む最新の翻訳ESVでも殆ど大きな変更はないのである。でも、どうしても私の責任において、邦訳の歴史で解決出来ていなかったことを解決しておきたいという思いで、満を持して「改訂」を試みた所がある。

 5節の neged ṣōrərāyという表現である。その前置詞句は文語訳以来「仇・敵の前に」と訳されてきた。代表的な邦訳聖書を年代順にあげると次のようになる。

「なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ、」(文語訳)

「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、」(口語訳)

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、」(新改訳)

「わたしを苦しめる者を前にしても

あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(新共同訳)

「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え」(新改訳2017)

「私を苦しめる者の前で

あなたは私に食卓を整えられる。」(協会共同訳)

 ここで問題となるのは、前置詞 neged (ネゲド)の翻訳と、「私の前に」と訳されてきた前置詞句 ləpānay (レファナイ)  との関わりである。換言すれば、主人(羊飼い)と「私」(羊)と敵との位置関係がどうなっているのかということである。英訳では、

”Thou preparest a table before me in the presence of mine enemies:” (KJV)

のように、ネゲドを “in the presence of”と訳し、レファナイを “before me”と訳してきた。

ところが、文語訳でネゲドを「まへに」と訳したために、邦訳聖書では、その伝統が受け継がれて、レファナイの方を「~のために」(文語・新改)「~の前に」(口語・新改17)「~に」(新共同・協会共同)と訳し変えてきた。

 もし、レファナイの「面前で」(直訳:「~の顔に」)とネゲドの「側(そば)」を比較すれば、それらの用法からも、前者の方がより近い関係を表していることが明白である。「主人」(羊飼い)と「私」(羊)の距離は、敵と「私たち」(主人を含む私たち)の距離よりも短いはずである。言い換えれば、主人(羊飼い)と私がいる所から、敵の方が「少し」離れていることで、羊である「私」は安全に、安心してして居られるのである。そのような位置関係を考慮し、共に詩篇の翻訳に携わった詩人の提案を容れて、「敵をよそに」と翻訳することにした。

 羊である「私」にとって、機会があればいつでも襲おうと狙っている「敵」の存在を常に意識してはいるが、主人である「羊飼い」が「面前で」、すなわち至近距離で養ってくださるゆえに、信頼し安んじていることが出来るのである。これこそ、主に信頼する信仰者の、この世にあって生きる姿ではないかと私は思う。

 

― 津村先生ありがとうございました ―

つむら・としお 
1944年兵庫県生まれ。一橋大学卒業、アズベリー神学校、ブランダイス大学大学院で学ぶ。文学 博士(Ph.D.)ハーバード大学、英国ティンデル研究所の研究員,筑波大学助教授を経て、聖書神学舎教師。ウガリト語、 旧約聖書学専攻。聖書宣教会理事、聖書考古学資料館理事長。著書に『創造と洪水』『第一、第二サムエル記注解』など。

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