世界80カ国以上で福音伝えたルイス・パラウ死去=「教皇は長年の友人」 2021年3月11日
著名な大衆伝道者ビリー・グラハムの後継者の1人として目され、世界80カ国以上でイエス・キリストの福音を伝えたルイス・パラウが3月11日、米オレゴン州ポートランドの自宅で肺がんのため86歳で死去した。葬儀は、ポートランドで小規模に行われる模様。現地メディアなどが相次ぎ伝えた中で、専門週刊誌クリスチャニティ・トゥデイの報道を紹介する。
パラウは65年以上にわたり、世界規模の伝道で影響力のある務めを果たしてきた。80カ国以上でメッセージを語り、またテレビやラジオ、書籍などを通して10億人以上に福音を伝えた。アルゼンチンからの移民で、米国に居宅を構えたパラウは、中南米などの国家元首にも福音を伝え、「クルセード」(十字軍)と呼ばれる大規模伝道には、プロテスタント、正教会、カトリックなどさまざまなキリスト教徒が集まった。
1990年代に入ると、パラウは米国に焦点を当て始めた。積極的にリーダーシップを発揮した子どもたちの影響で、パラウの伝道イベントは、ロックコンサートや社会奉仕活動を中心としたものになっていった。99年、ニューヨーク・タイムズ紙が、グラハムの後継者予測調査をした時、パラウはその第一候補だった。
パラウは、ブエノスアイレス郊外の小さな町、インゲニエロ・マッシュヴィッツで育った。第一次世界大戦後にスペインから移民してきた両親を持つ父ルイス・パラウと、スコットランド人とフランス人の家系を持つ母マチルデ・バルフォー・デ・パラウのもと、7人家族の唯一の男子として、バイリンガルの家庭に生まれた。パラウは、バイリンガルだった両親を通じて、幼い頃から英語を学んだ。
パラウの伝道活動は、ペンテコステ派を中心とした地元の教会や聖書協会が何十年にもわたって行ってきた伝道活動の後に行われることが多い。来会者に語りかけるだけでなく、パラウと彼の伝道チームは地域のリーダーたちとの出会いを求めた。「グアテマラのカルロス・アラナ・オソリオ大統領とは、12分の予定が1時間も続き、大統領はパラウから聖書を受け取り、勉強したいと言った」と1974年のことをクリスチャニティ・トゥデイ誌は報じている。
国際的な奉仕活動や、20世紀後半に中南米諸国が経験した政治的な混乱にもかかわらず、パラウは政治的なコメントをほとんどしない人と評された。後に世界で最も有名なアルゼンチン人となる人物ホルヘ・ベルゴリオとも、パラウは長年の友人だった。その友人が2013年に教皇フランシスコになった。パラウはその就任を歓迎し、「アルゼンチンのこと、教皇の人柄のこと、そして福音派キリスト教徒に対する教皇の開放性のことを考えると、とてもエキサイティングだった。彼を知っていただけに感動した」と語っている。
教派を超えたパートナーシップの精神は、パラウの「クルセード」にも見られ、地元の教会との協力関係や、長年疎遠だったキリスト教徒同士の信頼関係の構築に反映している。協力関係は、プロテスタントの信徒に働きかけるだけでなく、広く行われている。エジプトやロシアのように、福音派と正統派のキリスト教徒が長く対立していた国では、「クルセード」がパートナーシップのきっかけとなった。中米では、カトリックとカリスマ派が彼のイベントに参加した。
「興味深いことに、米国は世界で最も教派間の協力が難しい国。アメリカは『神の下、一つの国』という主題を口にするが、それは理論に留まる。都市全体で行うクルセードが未信者に触れるのではなく、教会が一緒になって未信者に触れるのだ」とパラウは語っている。
時が経つにつれ、パラウの米国での存在感は強くなり、方向も変わってきた。会場も、スポーツアリーナからダウンタウンの公園に変更した。社会奉仕活動を行うようになった。数十の教会に衛星放送で伝道を中継する時には、地元のバンドや講演者、地元のスポーツなどを招いてビーチパーティーを行い、大学生にアピールすることを勧めたりもした。
イリノイ州のウィートン大学ビリー・グラハム・センターのエド・ステッツァー理事長は、「パラウは明らかに正統派であり、不愉快なものではなかった。全国規模の催しでは出来ない何かを彼はやったのだ」と指摘している。(CJC)
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