【夕暮れに、なお光あり】 看取りは誰に 上林順一郎 2021年3月21日

 「病院で死ぬか、在宅で死ぬかじゃありません。誰に看取られて死ぬかなんです」(『大往生』永六輔)

 新型コロナの感染拡大がこの1年、私たちの社会を混乱させ、人々を不安と恐れに陥れたのは感染の広がりや病気の重篤さ、死への恐怖もありますが、むしろ人と人との結びつきを破断し、分裂させたことにあったのではないかと思います。

 「感染の危険」という言葉によってどれだけ多くの人間関係が阻害され、断絶されてきたことでしょう。そのことは人生における最期、最も大切な瞬間においても起こっています。愛する家族や友人の手を握って励ますこともできず、最期の看取りをすることも許されず、再会の希望を告げる言葉さえ奪われ、「交わりの断絶と孤独の死」が当たり前のようになっています。

 自らには何の責任も咎(とが)もないのに、コロナ感染者というだけで非難や差別を受け、家族までが誹謗中傷、排斥されるという不条理がまかり取っています。私たちの周りには今「排除と差別」という「死に至る病」が蔓延しています。

 「わたしたちの兄弟の大半は、あふれんばかりの兄弟愛から、骨惜しみせずに互いのことを思いやりました。彼らは危険を顧みずに病人を訪れ、優しく介護し、キリストにあって仕え、そして彼らと共に喜びの内にこの世を去りました。この人たちは他の者から病気を移され、隣人たちの病を自らの側に引き寄せ、その苦痛を進んで自分のものにしました」

 紀元3世紀、アレキサンドリアで疫病が猛威を振るった時、司教ディオニュシウスが復活祭に信徒に宛てた手紙の中の言葉です(『キリスト教とローマ帝国』R・スターク)

 現在、昼夜なく自分の命の危険をも顧みずに医療活動に従事している人々の姿と重なります。

 「彼らが苦しむときはいつでも、主も苦しまれた。/御前に仕える御使いによって彼らを救い/その愛と憐れみによって彼らを贖い/昔からずっと彼らを負い、担ってくださった」(イザヤ書63:9)

 この預言はイエスにおいて成就され、いまもコロナ禍の中でイエスご自身がこの世界と共に病み、苦しみ、そして私たちの死をその身に引き受けておられるのです。

 「最期を看取ってくれる医者、葬式をきちんとやってくれる坊主、これは早めに見つけておくことをおすすめします」(永六輔)

 心配しないで大丈夫!

 「すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。『来よ、わが友、われ汝を見捨てじ』と」(ホイヴェルス『人生の秋に』)

 大牧者なるイエス・キリストが看取人となってくださるでしょう。

 かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。

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