【東アジアのリアル】 台湾キリスト教長老教会の視点から見た李登輝 鄭 睦群 2021年4月11日
2020年7月30日、台湾の李登輝前総統が台北栄民総合病院で息を引き取り、98年間の数奇な人生に幕を下ろした。同年9月19日、李登輝の国葬礼拝が真理大学(新北市)の礼拝堂で執り行われ、台湾内外から著名人の弔問客が参列し、アジアの「ミスター・デモクラシー」の死を共に悼んだ。
李登輝の国葬が執り行われた真理大学は台湾基督長老教会(以下、長老教会)に属する高等教育機関であり、彼は同教派の台北市の済南教会(元・日本基督教会幸町教会)に信徒籍を置いていた。そのため、長老教会の責任者たちが奔走し、また李登輝の家族の同意を得たことで、総統府は台北市内のいくつかの国葬予定場所を諦め、長老教会関係の真理大学で国葬を行うことを決定し、しかも長老教会の規則に従って礼拝式を執り行うことを尊重した。
李登輝が洗礼を受けているキリスト者であること以外に、彼が本省人であり、学者出身であり、日本植民地時代を経験しており、さらには独裁政権時代の終わりころに政治の舞台に登場したということなどは、多くの長老教会関係者が彼に対して特別な期待を抱く要素となった。「信仰」と「民族意識」の二つのアイデンティティにおける賛同の可否が、次第に長老教会が李登輝の言動や政治成果を評価する際の基準となっていったのだ。
李登輝が長老教会から注目されるようになったのは、1981年に台湾省の主席に就任した後からであり、特に88年に総統になった後に最も注目を浴びるようになり、2000年に退任した後も常に議論の焦点となっている。一般的には、彼の「キリスト教信仰」と「台湾人意識」が、長老教会が彼を支持する理由と理解されがちだが、しかし彼がその二大原則に反するような言動をとるようなことがあれば、長老教会からは彼を厳しく批判する声が上がった。
例えば、蒋経国(蒋介石の息子)が亡くなった時、李登輝が蒋父子の埋葬されている慈湖陵墓(桃園市)を墓参すると、長老教会の機関紙「台湾教会公報」はすぐさま社説の中で「これはキリスト者が取るべき信仰的態度だろうか」と批判した。また李登輝が90年に「国家統一委員会」を設立し、同年10月10日の国慶節に「いかなる中国人も統一の責任や統一の努力から自分を除外すべきではない」と語ったが、このことは、当時すでに台湾独立を志向していた長老教会にとっては受け入れがたいものであり、多くの人が彼の発言に対して公に反対を表明した。
しかし、99年に李登輝が台中関係を「特殊な国と国の関係(二国論)」と提起した際には、長老教会は一致して全面的支持を表明し、それ以後は彼を「モーセ」と形容するまでになった。
全体として、長老教会の李登輝支持は、外部者が考えているような無条件的なものでは決してなく、一貫して自分たちの原則や基準に即してなされていたものだったと言える。もちろん、李登輝は彼なりの国家戦略や心境の変節があり、総統として国家の大権の舵取りをし、政府に向けられるすべての批判を受け止めながら、現実の中で一つの折衷案の道を歩まねばならなかったのは言うまでもない。したがって、李登輝は長老教会からの批判や支持を受けながらも、おそらく彼の心中には彼自身の判断基準の物差しがあり、彼の政治的理想を実現するための青写真や道筋を思い描いていただろう。
もう一つ興味深いことに、李登輝が長期間にわたり台湾総統と国民党主席を兼任していた際、長老教会にとって「李登輝支持」と「国民党支持」は区別される異なる事柄であった点だ。このことは、今日に至るまで変わっていない。(翻訳 松谷曄介)
てい・ぼくぐん 1981年台湾台北市生まれ。台湾中国文化大学史学研究所で博士号取得。専門分野は、台湾史、台湾キリスト教史。現在、八角塔男声合唱団責任者、淡江大学歴史学部と輔仁大学医学部助教、台湾基督長老教会・聖望教会長老、李登輝基金会執行役員、台湾教授協会秘書長。