【3・11特集】それぞれの10年 汚れた土と水 後代まで残すのか 岸田誠一郎 2021年4月21日
未曽有の大災害から10年。地元の漁業・農業関係者らの反発をよそに、東京電力福島第一原発による汚染水の海洋放出が4月13日、閣議決定された。震災後、関西から移住し、地元住民とは異なる視点から発信を続けてきた牧師の目に、福島の現状はどのように映っているのだろうか。
担うべき働きを求めて
岸田誠一郎(福島県キリスト教連絡会「放射能対策室」元代表)
大学が理工系だったこともあり、サークル活動を通して核や原発の問題について関心を持ちましたが、一般企業に就職してからはその問題から遠ざかっていました。チェルノブイリ原発事故や福島第一原発事故によって、その関心に引き戻されました。
震災から3年後、牧師の任期が切れるのを機に、残された人生と与えられた使命を考えて福島に転居することにしました。牧師として派遣されたわけでも、任地が決まっていたわけでもありませんが、不思議と途切れなく住む場所や担うべき働きが与えられてきました。一大決心と思われがちですが、会社を辞めて牧師になった時と同様、私自身はただ神様に「右ですか? 左ですか?」と聞きながら歩いてきたら道が開かれたという感覚でしかありません。
関係者への報告を兼ねて細々と発行していた私信「福島で思うこと」も、回を重ねるごとに部数が増え、最終的にはメール配信も含めると、800人近くの方に配信したことになります。少しでも福島に関心を持ってもらおうと、観光情報なども盛り込むなど、硬軟織りまぜて発信を続けたところ、本当に多くの方が熱心に読んでくださいました。
以下、10年目の3月11日付で発信した私信から、福島の現状をお伝えいたします。
預言者の声となる必要
「非日常」の景色が日常に
除染で出た汚染土が、フレコンバック(フレキシブルコンテナバッグ)――1トン程度の重量物を充填できる袋状の包材――に収納され、福島県内いたるところに置かれてきました。福島市では、個人宅や公的なスペース(公園、学校のグラウンド、山林など)の地面に穴を掘って地中に埋設したり、地上に積み上げ、放射線を遮蔽するための土嚢で覆い、さらにビニールシートをかけたりして保管してきました。現在、これらの地域で保管されてきた膨大の量な汚染土は、順次、福島第一原発周辺に設けられた中間貯蔵施設へ運び出されています。
昨年末から、私たちのアパートの前の大きな公園でも目隠しのフェンスが設置され、搬出作業が始まりました。さらに、住宅街にあるカラフルな遊具がある人工芝のおしゃれな公園でも……。最初のころは驚いて、記録に残そうと思い慌ててカメラで撮りましたが、だんだん「非日常」の景色に驚かなくなっていきました。それほど、非日常の景色が、日常の景色になっているのです。
搬出された汚染土が向かう双葉町、大熊町の中間貯蔵施設は、名前に「中間」とあるように、除染で取り除いた土壌や放射性物質に汚染された廃棄物を、最終処分するまでの間、安全に管理・保管するための施設です。この汚染土は、中間貯蔵開始後30年以内に、福島県外で最終処分を完了することが法律で定められています。しかし、将来的なことは何も決まっていません。なし崩し的に、そこに置き続けることになるのでしょうか。
他方、環境省は「使用できる土は最大限使い最終処分量を減らす」として、8千ベクレル以下の土壌は農地や道路整備に使うなど再生利用の方針を示し、県内で実証事業を行っています。このように、国の方針によれば、汚染土は、最終処理をするにせよ、再生利用するにせよ、全国に散らばることになります。
また、原子炉の冷却に使われた水100万トン以上が、福島第一原発の敷地内の約1千基の巨大なタンクに保管され、汚染水のタンクが2022年に一杯になるとされています。汚染水は、多核種除去設備(ALPS)でセシウムを含む62種の放射性物質を除去していますが、トリチウムは除去できません。国からは薄めて海に流す案が出され、このほど閣議決定されました。しかし、当然漁業関係者などからは反対の声が出されています。
第一原発から北に約5キロの双葉町に2020年9月20日、「東日本大震災・原子力災害伝承館」が開館しました。復興祈念公園、双葉町産業交流センターも隣接し、周辺には中間貯蔵施設の受け入れ分別施設が見え、津波被害を受けた家屋が残っています。ここは少し前までは帰宅困難区域に指定され、一般の人は立ち入ることができませんでした。2020年3月4日に避難指示が解除(双葉町北側の一部)されたのです。伝承館は、地震や原子力災害および復興の過程を示す資料を収集保存して未来に残すと共に、それら約24万点に及ぶ収蔵資料を活用した展示を行い、災害・復興に関する情報を発信し、さらに研修プログラムなどを実施する施設であるとされています。
私は9月に入館料600円を払い見学しましたが、たいへん複雑な気持ちにさせられました。一体何を示そうとしているのか、過去の教訓を学ぶそのあり方や方向性に曇りを感じてしまうのです。事故の教訓を象徴する「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を掲げた看板(事故前まで双葉町に設置されていた)の展示をめぐっても、疑問の声が上がっています。
福島支援の一環で引き受けた牧師の働きを昨年3月末で退き、引き続き福島市内に留まりながら、個人でできる範囲で福島の応援を続けています。今まで読もうと思って読めなかった書籍を読む中で、内村鑑三と田中正造に目が留まりました。彼らは明治の時代に預言者的な発信を続けましたが、その姿を通して自分を見つめたいと思ったからです。彼らが向き合った課題は実に今日的な課題であり、足尾銅山鉱毒問題に見る国や企業のあり方、富国強兵に沸き立って世相に流される国民の空気に、内村や田中が抗い、警鐘を鳴らしている様子は、そのまま現代にも当てはめるべきことです。水俣病問題を考えることにも、原発問題を考えることにも、同じ構図があって当てはまるのです。
私たちは預言者の声を聞き、また私たち自身が、か細いながらも預言者の声となる必要があると思わされています。
きしだ・せいいちろう 1956年大阪府生まれ。大学・大学院で化学(分析化学)を専攻し、一般企業の研究所に7年間勤務する。その後、聖書宣教会で学び、横浜市、佐倉市、岸和田市で牧会。福島第一原発事故を機に2014年から福島市に転居、2020年3月までミッション東北 福島聖書教会で牧師として奉仕。現在、フリー。
写真=大熊町の中間貯蔵施設。高圧鉄塔の先に福島第一原発がある。