【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】 お坊さんとはお付き合いできない? 上林順一郎
Q.お付き合いしている彼が、お寺の跡取りです。やはり別れるべきでしょうか?(30代・女性)
「愛に生きるのか」、それとも「信仰に殉じるのか」あぁ、この究極の選択! 正直に言って、私には答えられません。
もし、愛に生きるとして、現実には「お寺の奥さん」(坊守というそうですが)として朝のお勤めのときはどうするのか、葬式や法事のときにはどう対応すればよいのか、檀家の相談事にはどう答えればよいのか、それにあなた自身の信仰生活をどう守るのか、難しい問題がたくさん予想される「狭き道」ですね。
「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に暮らすことを望んでいる場合も、離縁してはいけません。信者でない夫は、妻によって聖なる者とされ、また、信者でない妻は、夫によって聖なる者とされているからです」(コリントの信徒への手紙一7:13~14)。これは夫婦間の「未信者の夫」の場合ですし、相手がお寺のお坊さんを想定してはいませんから、当てはまりますかどうか……。
それでは愛を捨てて信仰に生きるのが正解なのかどうか。アンドレ・ジッドの『狭き門』は愛と信仰との葛藤を描いているものですが、「主よ、ジェロームと私と、手を携え、互いに助け合って、主のみ許へ進むことができますように。……いえ、いえ、主よ、あなたの示したもう道は、狭いのです。2人並んで進むことができないほど狭いのです」。
恋人ジェロームとの愛を拒み、アリサは信仰の道に生きることを決意します。しかし、愛と信仰との間で苦しみ続けながら、孤独のうちに衰弱死します。このアリサの生き方を信仰の殉教と呼んでいいものかどうか、私は少々疑問です。
さて、私ならどうするのか。たぶん相手と手を携え、助け合いながら「狭き門」をこじ開けて通り抜けることでしょう。その先に難しい問題が予想されるとしても、「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」(コロサイの信徒への手紙3:14)と信じるがゆえに。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。