【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】 知らない人の葬儀説教で何を語ればいい? 上林順一郎
Q.これまでお付き合いのなかった方の葬儀で、どんな説教をすればいいでしょうか。(30代・牧師)
何度か面識のない人の葬儀を頼まれることがありました。「交通事故で亡くなった子どもさんの両親から」、「故人は若いころ洗礼を受けていたので、と家族の方から」、「身寄りの人がいなくて、と病院出入りの葬儀社から」――。
ケースはいろいろでしたが、そんなとき困るのは、葬儀の説教で何を話せばよいかです。時間の余裕も心の準備もないまま、心の通わない説教でお茶を濁すこととなり、「引き受けなければよかった」と、後で悔やむこともありました。
でも、私はまったく面識のない人でも依頼されれば葬儀を引き受け、説教もします。故人をよく知っているからといって、ふさわしい葬儀説教ができるとは考えないからです。
もちろん、その人の生前を知っていることで、語るべきことも多くあるでしょうし、心のこもった説教もできるでしょう。しかし、それが葬儀説教に欠かすことができないものだとは思わないのです。
説教で語られるべきはその人の生涯のあれこれではなく、またその信仰でもありません。その人に向けられたキリストのまったき救いと恵みの業をこそ語るべきでしょう。たとえそれまで一度も会ったことのない人でも、またキリスト教の信仰をもっていなかった人に対してでもです。
「主よ、私が何も言ってあげることができないすべての人々と共に、今み前に参りました。……おお主よ、私はこれらの人々について語ることができません。ですから、せめて、これらの人々のことについて、これらの人々のために、あなたとともに語らせて下さい」(クリスティアン・メラ―『慰めの共同体・教会』教文館)
私たちにできることは、「これらの人々のため」へのとりなしと、「神とともに語らせて下さい」と祈りつつ、待つことではないでしょうか。そのとき、故人についての「饒舌な語り」より、「寡黙な説教」の中に人々は神の言葉を聞くことでしょう。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。