【夕暮れに、なお光あり】 年を取るということ 島 しづ子 2021年6月21日
新型コロナワクチンの接種予約手続きの関係で、市役所に行った。ドアをノックして待つと、忙しいという風情も見せないで、担当の方が出てきて対応してくれた。テキパキとしていて気持ちのいい対応だった。「念のために年齢はおいくつですか?」と聞かれた。「はぁ? さっき生年月日を書いたのに、65歳以上でないと受けられないからだな」と思いながら、「73歳です」と答えた。「まぁ、とても若く見えたもので」と言われた。若く見られて有頂天になることはないが、嬉しいことだ。日々、何かしら不自由なことが起こるから、若くはないと思っている。
今朝は庭の草抜きをした。指先の力がないから、素手では草を抜けないので、イボイボの付いた手袋をして草抜きをする。海に出かける時は膝とかかとにサポーターをしている。さらに手袋をすれば、船の上で縄を取ることや重いアンカーの上げ下げもできる。
心身共に力があった時は、「私がやらなくて誰がやる?」みたいに意気込んでいたが、今では「させていただいていた」と思うようになった。今も自分のペースでできることは、喜んで引き受けている。それができるということが嬉しいと思えるし、まぁ、それらを断るほど忙しいわけでもないから。
ただ、何でも自分のペースが肝要だ。1週間の単位で予定を立てて、自分のペースで取り組むと無理なくこなせる。だから、予定外のことはちょっと苦手かもしれない。急かされたりしたら動揺してしまう。
そういえば、以前よりも仕事の手順をよく考えて行っている気がする。人との約束も、仕事の集まりにも若かった時には滑り込みセーフが当たり前だったが、今は時間よりも前に着くようになった。働いている伝道所は、現在はコロナ感染予防のために、自宅礼拝としている。そのために週末には届くようにメッセージを郵送し、メールを送り、当日は若い方の手伝いもありZoomで配信している。毎週金曜日には完全原稿を二つ用意するということもできている。
この年齢で、このような働きをさせていただけることは幸いなことだと思っている。年を重ねたら時間がゆっくり流れているように感じる。自然観察も人間観察も熱心にするようになった。最後の祈りを唱えるまで、できることをさせていただきたいと思う日々である。
「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」(ルカによる福音書23:42)
しま・しづこ 1948年長野県生まれ。農村伝道神学校卒業。2009年度愛知県弁護士会人権賞受賞。日本基督教団うふざと伝道所牧師。(社)さふらん会理事長。著書に『あたたかいまなざし――イエスに出会った女性達』『イエスのまなざし――福音は地の果てまで』『尊敬のまなざし』(いずれも燦葉出版社)。