【夕暮れに、なお光あり】 墓は、どうする? 上林順一郎 2022年6月11日
80歳を過ぎたころから、体力が次第に衰え始め、持病も回復に向かう気配はなく、夕日が西の海に静かに沈み始めているように感じる日々です。そんな様子を察知したのか、最近子どもたちが「お墓はどうするの?」と聞いてきます。
私の父は若いころに生まれ育った滋賀県北部の寒村を去り、以後故郷とは絶縁状態で、我が家にはもともと墓はありませんでした。両親は晩年に洗礼を受け、その遺骨は今は妹夫妻の所属する教会の墓地に入っています。姉夫妻も自分たちが所属していた教会の納骨堂に入っています。妻といえばかつて在籍していた地方の教会の墓地に入ると決めています。私1人が行先未定、いや行先不明なのです。
ところで、牧師というのはどこの墓に入るのか、案外難しい問題です。信徒なら自分の「家の墓」か、あるいは所属している教会の墓地というのが一般的でしょう。しかし、牧師の場合、現役の牧師ならあまり問題はありませんが、私のように隠退した牧師の場合はどうするのか。例えば最後に牧会した教会か、一番長く牧会していた教会か、相性のよかった教会か、隠退後に出席していた教会か、あるいは葬儀をしてもらった教会の墓地か、いろいろ悩むのです。
先般、ある方の納骨式を行った折に近辺の墓石を見て回ったことがありました。「来てくれてありがとう」という言葉が刻まれている墓石がありました。墓石の中から感謝の気持ちを伝えているのでしょう。その近くには「いつも来てくれてありがとう」という墓石もありました。もっとひんぱんに墓参りに来るようにとの催促の言葉にも思えました。
墓とは逝った者と残った者たちとの「関係の確認」と言えるかもしれません。そう考えると、それなりに答えは出てくるのです。例えば、関係した教会の墓すべてに「分骨する」こともあり得るかもしれません。まあ、家族の墓参りがタイヘンではありますが。
そんな迷惑なことはしないで、モーセの最期を手本にしたいものです。「主の僕モーセは、主の言葉のとおり、モアブの地で死んだ。主はベト・ペオルの向かい側にあるモアブの地の谷に彼を葬られた。しかし、今日に至るまで、誰も彼の葬られた場所を知らない」(申命記34章5、6節)
モーセは死んだ後、墓に葬られましたが、モーセの墓の場所は誰も知らないのです。残された者たちとの「関係の確認」など必要ないということでしょう。いや、神との「関係の確認」だけで十分ということです。
「エリヤはつむじ風の中を天に上って行った。……しかしエリヤはもはや見えなかった」(列王記下2章11、12節)。エリヤは神様のみ許へ直行ということでしょう。最高の最期です。ならば、墓はいらない?
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』『ふり返れば、そこにイエス』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。