【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(12) 人生ずっと迷ってます 福島慎太郎 2024年1月18日

 人は迷いやすい。

 入学、就職、子育て、転職、退職というターニングポイントから日常の些細な出来事まで。

 迷うということは立ち止まって物事を見定めようとしている成長の瞬間だ、だから聖書でも弟子たちが大いに迷う姿が描かれているし、むしろそれ自体を欠くと人はとんでもない暴走を始めるだろう。

 みんなは迷っているだろうか。それは良いことだと思う。しかし迷い〝すぎる〟のはよくない。理由はシンプルでなんでもやりすぎると自分の限界を超えて疲労感や焦燥感を覚えてしまう。

 それでも生きていると問いや悩みは尽きない。そしてその時間が長ければ長いほど人は次第に心を閉ざし、視線は下に向き、その人がその人らしく生きていくことができなくなってしまう。

 ボンヘッファーは人生を含めあらゆる出来事を「道」に例える。その中でこんなフレーズがある。

 神の道は、神みずからが通って行った道であり、今やわれわれが神と共に歩んでいく道である。……神がわれわれを招いている道は、神によって切り開かれ、神によって守られた道である。

 心や視線が沈み込む時、人は焦点が狭まっていき抜け出せない沼にいるような感覚に打ちひしがれる。「もうだめじゃないか」というささやき、歩き疲れ泥だらけになった足。しかし聖書の指針とは「まさにそのような時こそ神はあなたといるのだ!」と福音(良き知らせ)を語る。

 往々にして生きていて悩み、彷徨うのは「この問題は自分にしか分からないし解決もできないんじゃないか?」という強烈な重荷を感じる瞬間ではないだろうか。しかしボンヘッファーは、「まさにそのような人生、生き方、これまでの重荷や歩み――つまり道こそすでに神は知っており、今あなたと渡り歩こうとしているのだ」と語る。たとえそれが誰かからの攻撃や自分の失敗であってもだ。

 われわれは単に次に歩み出すべき一歩と最後の目標を知っているにすぎないが、神は道全体を知っている。この神のもとで立ちどまり続けるということはありえない。

 泥沼に浸かりゆく人間は最終的に「自分はこんなもんだ」と限界線を引く。しかし、人にとっての限界は神にとっての限界ではない。むしろ自分自身を過小評価することは、人間を造った神にとって悲しみと痛みそのものだ。だから僕たちは今日この日、改めて思い返さなければならない。歩むこの道、次の一歩、そこにこそまさに、神が新しく造ろうとしている私の人生があり、その場所でこそ自分の古い声ではなく神の新しい語りかけを聞くのだと!

 確かにわれわれは罪を犯す。そのことを我々は否定しない。しかしそのことを告白したあと、われわれの目はもはやわれわれの罪と弱い本性を見ず、……神の言葉だけを見つめる。

 聖書で神の言葉は「私の足の灯/私の道の光」(詩編119編105節)と記されている。そう、この瞬間も確かに神は私たちの足元に灯火を添え、どれほど今日という日が暗闇に閉ざされようとも「この道の先へ進もう」と語りかけようとしているのだ。今、あなたの道ではどのような景色が見えるだろうか。私は今日という日、明日という未来がどうなるかは何も知らない。しかし、いやだからこそ、この神に期待して次の一歩を思い切り踏み出したいと思う。

 「彼らは不正も働かず/主の道を歩む」(詩編119編3節)

参照:D・ボンヘッファー 著/森野善右衛門 訳『現代キリスト教倫理』(新教出版社)

 ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。

Image by PDPics from Pixabay

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