【宗教リテラシー向上委員会】 心をたがやす 向井真人 2024年2月11日

 2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになった日とされている。彼は遊行の旅を続けながら80歳にして入滅される。倒れ、伏し、そんな中でも「私の亡き後は、自分自身と仏の教えを頼りにせよ」「怠らずはげめ」と心をたがやすように弟子たちへ告げた。死にゆく人による遺された者たちへのメッセージであり、令和の日本のお坊さんたちはこの言葉を胸に抱いて生活している。

 現代の日本人の平均寿命に近い年齢で亡くなられるまでに、お釈迦さまはさまざまな人生経験を経ている。五体満足で衣食住に困らない身の上に生まれる。教育を受け、先達に付いて教えを請い学ぶ。結婚し、子どもが生まれる。多数の人間関係のなかに身を置く。親しい人、弟子に先立たれる。歳を重ね、身体が衰え、ついには亡くなるのだ。「普通の人生」の決まりなどないものの、私たちと似ている。時代や地域の違い、人生の浮き沈みはあれど、お釈迦さま同様ではないか。怒り、迷い、喜びと出会い、立ち向かい、やりすごし、打ちのめされる。それでも生きていく。自分のこの心身を杖そのものとして生きていくしかない。必死の生き様を、赤裸々に、周りに見せよ。お釈迦さまが人生の最期に告げた二つの内容とは、人の生きる姿をそのままに肯定する、実行性のある言葉である。

 転ばぬ先の杖、立ち上がるための杖、うまく倒れこむ杖。長い道のりを歩んでいく上で私たちには教えが必要だ。世俗や狭い集団内規範を人生の判断基準にしたら、拝金主義や完璧主義など先鋭化して迷いの道に入りこんでしまい、出られなくなってしまう。教えといっても、仏の教えだけではない。神のみ言葉もあるし、先人や同時代人の教えもある。では頼りとする教えをどのように汲み取るか。一つには、誰か現在を生きている姿に触れて汲み取ること。もう一つは言行録から出会うことだ。人は誰しも人生の目標、生活の基本や仕事への矜持を持つ。年若い者にも、年齢を重ねた身においても、畏敬や感謝をもって接することだ。そしてそんな機会を折々に持ちたい。仏教で言うならば、法話を聞く、経を読む。キリスト教で言うならば、日曜礼拝に行く、聖書を開くだろうか。宗教者による本を入り口とすることもよいだろう。

 かまくら春秋社刊行『心をたがやす』では、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺師、カトリック教会枢機卿の前田万葉師が仏典と聖書から言葉を取り上げ、文章を添えている。仏典の言葉とともにご自身の考えはあまり出さないように横田師はなさっており、前田師は聖書の言葉とともにご自身のご経験を記しており、お二人の姿のコントラストも面白い。

 生きている中の行為すべてが「心をたがやす」ことそのものだ。心の田を耕す鍬となれ、肥料となれ、種となれ、水となれ、陽の光となれ。生きるとは、自分の存在を掘り起こすことだ。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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