【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 道が続く限り 大橋茉莉耶 2024年2月11日
教会は、主へ至る一本道です。「人の歩みは主によって確かなものとされ/その人の道を主は喜ばれる」(詩編37:23)、「私は道であり……私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14:6)、「すべてのものの上に立つ頭としてキリストを教会に与えられました」(エフェソの信徒への手紙1:22)。日曜日の礼拝へ向かう私たちは、足取り軽い時もあれば、足取り重い時もあるけれど、いつも変わらず主が通してくださった道であると信じて歩みます。
茨木教会には、主日礼拝前の時間に「朝の礼拝」という30分の短い礼拝があり、教会学校と同時並行でささげています。夕礼拝の出席者が減少したことをきっかけに始められ、変遷を遂げながら25年ほど続けられてきました。説教は、歴代の教職はもちろんのこと、長老や教会学校教師が務められたこともあったようで、たくさんの方々の手によってバトンが受け継がれてきたのです。現在も中高生や、教会学校生徒や附属幼稚園の保護者、求道者や主日礼拝に出席出来ない方を対象にささげています。
とはいえ、主日礼拝が何より大切であることには変わりありません。現状、朝の礼拝に中高生を見かけることは稀で、時折近隣中学校から送り出されてこられる程度です(学校の先生方にはいつも感謝しています)。それでも、朝の礼拝に熱心に通ってくださる求道者や子育て中のお母さんがおり、「礼拝堂の中に興味があった」という新来会者がフッと来られることもあり、近隣中学校との連携のためにも必要とされていると思っています。そして、ゆくゆくは夕礼拝を再開することも理想として持っています。
当初は正直なところ、2人の子どもがおりながら、日曜日の朝に三つの礼拝をこなすことができるのかと不安もありました。しかし今は、「説教は、牧師の務めである」と身にしみているところです。私たちはみ言葉を語るために主から遣わされたのだから、求められればどこでも礼拝し説教する牧師でありたいと願うものです。
神学生時代、ある教授がお証しの中で、言葉は正確ではないかもしれませんが「主に求められる限りは働き、求められなくなれば辞める」というようなことをおっしゃいました。その頃の私は、牧師の召命はあったものの、その適正が自分にはないのではないかとも疑っていて、すっかり自信をなくしていたわけですが、先生のその生き方に感動し、自らの召命を確信させられたのでした。先生はもう主のみ元に召されましたが、私は今でもそのお証しを思い起こします。目の前に道が続いている限りは、行けと言われた場所へ行って惜しみなくみ言葉を語り、もうよいと言われればいつでも辞める覚悟をする、それを私の召命として生きていくことにしたのです。
どうか「コレカラ」の教会が、主へ至る道として立っていけますように。「コレカラ」の皆様の歩みが、主によって確かなものとされ、その道を主が喜ばれますように。全国に遣わされている説教者を通して、十字架の救いを求める者がひとり残らず養われますようにと祈っています。
大橋茉莉耶
おおはし・まりや 1989年、東京都で牧師家庭に生まれる。敬和学園高等学校、東京神学大学・大学院終了後、日本基督教団浜北教会に着任し、伝道師を経て牧師となる。2023年度より日本基督教団茨木教会へ転任。2児の母で、趣味は歌うこと。