【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 キリストの教会はなくならない 安達世羽 2024年3月21日

 「先生のお子さんたちが成人した時には、毎週の松田教会の礼拝は墓前礼拝かもしれませんね」と、ある信徒が冗談混じりで言ったことがある。しかし、私は「面白い! それもありかもしれない。ある意味で原始教会だ」と思ってしまった。

 2030年問題が取り上げられ、教会の閉鎖も耳にすることが多くなってきた。教会の閉鎖という大きな決断は、決して私がここで簡単に語ることができないほどの祈りと、涙によってなされた決断だろう。一方で周囲の人は、そのようなことを聞く時に危機感、焦燥感を感じるのではないだろうか。「このままではヤバい」。松田教会だって、10、20年先にどうなっているか、正直分からないし、焦りを感じることもある。

 しかし、同時に一つのことを思わされている。それは、「キリストの教会はなくならない」ということだ。確かに、教会の閉鎖が残念なのは間違いない。しかし、時に周囲は「教会の閉鎖=主のみ心ではない」という視点で捉えてしまうこともあるが、果たして本当にそうなのだろうか。

 例えば、ヨハネの黙示録に出てくる七つの教会だって、2000年の時を経た今もあるわけではない。私は専門家ではないので経緯は分からないが、七つの教会は「閉鎖」されている。けれども今日、キリストの教会は当時よりも全世界に広がっている。また、似たような事例は私たちの住む日本にもある。「隠れキリシタン」がまさにそれである。外から見れば宣教は失敗し、教会はなくなった。しかし、実際には信仰者の群れはなくならなかった。そう。キリストの教会はなくならなかったのである。

 確かに、日本の宣教史、中でもプロテスタント宣教史だけを見るならば、今日の教会は衰退しているのかもしれない。でも、それは「たった150年の歴史」からの視点でしかないのも事実だ。2000年の歴史で見たらどうだろう。はたまた神様の視点で見たらどうだろう。私たちは確かに「おわり」の時代に向かいながら歩んでいる。しかし、それがいつかは分からない。もう2000年後かもしれないし、もっと短い、あるいは長いかもしれない。

 そんなことを思う時、私たちは今、置かれている地で何を残したいのだろう。別の信徒がこんなことを言っていた。「〝教会〟という箱物ではなく、キリストのように生きるというアイデンティティーをこの地に残していきたい。こんな人たちが松田に居たんだということを残したい」

 私もそう思う。置かれた地で精一杯「神の国」を現そうと歩む。しかし、その結果、教会が閉鎖されるのであれば、私はその決断を尊重したいし、何よりも教会のかしらであるキリストご自身が、その責任を担ってくださると信じている。そして、かしらであるキリストご自身が何年先か、どういった形かは分からないが新しい風を吹かせてくださると信じている。図らずも今回はイースター号だ。上記のことは復活信仰とも言えるのだろうか。

 「キリストの教会はなくならない」。このことを胸に、置かれた地で「神の国」が現れるように、「こんな人たちがいたんだ」ということを残すために、今できることをしていく。そうしたら絶対に神様が風を吹かせてくださる。そんな復活信仰で今を生きようではないか!

あだち・よはね 1993年、神奈川生まれ。名前から「隠れられないキリシタン」として中高生時代を過ごす。大学卒業後、2年間の自殺予防の働きを経て、聖契神学校へ入学。2023年、同校を卒業し、日本聖契キリスト教団松田聖契キリスト教会に赴任。趣味は横浜DeNAベイスターズの応援。

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