【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第9章 互いにいじめてはならない 愛の共同体ゆえの危険 細川勝利 2014年6月21日

教会にいじめはない?

 いじめは今に始まったことではない。小生の小学校時代、つまり約60年前も、いじめはあった。小生はいじめられたことはなかったが友人をいじめ、教師をいじめたのでよくわかる。友人や教師には本当に申し訳なかったと思っている。

 しかし最近、いじめが改めて大問題になってきたのは、教師が生徒をいじめ、親が子どもをいじめる。そしてその結果、生徒が自殺し、子どもが生命を失う。つまり、いじめが〝殺人〟であるということである。しかも、それらのいじめが学校、教育現場、そして家庭という閉鎖的社会でうやむやにされてきたケースも明らかになった。

 教会も閉鎖社会と言える。しかも、利害関係や趣味や職業や血筋による社会ではなく、ただ神の愛によって集められた愛の共同体である。学校や家庭でいじめがあってはならないように、教会でもいじめがあってはならない。そういう意識は、教師や親が意識するように、我々、教会を構成する者は暗黙のうちに互いに了解している。教会は愛の共同体であり、神の愛を証するところにいじめがあってはならないという絶対的な意識が、いじめがあった時、教会の中でそれを解決しようというより、無視したり、隠そうとすることになる危険がある。

 今まで、教会内のいじめについて読んだり、聞いたり、話し合ったりしたことは一度もない。教会内でいじめはタブー中のタブーだからではないかと思う。教会内でいじめがあるなどと書けば、それこそ教会人から総いじめにあうことを恐れているからかもしれない。

 しかし、現実は教会にもいじめがあることを否定できない。なぜなら、愛の共同体であり、罪赦された者たちの集まりであるとは言え、やはり赦された罪人であり、完全な者は1人もいないからである。聖書は罪ゆえに神の家族にあるいじめを明らかにしている。カインとアベル、ヨセフの兄弟たち、モーセと民たち、サウルとダビデ、主イエスとユダヤの指導者たち、パウロと一部の伝道者たち、コリント教会の兄姉たち、と枚挙に暇がないのである。

 だから、現実の教会にもいじめがあると言うのではない。しかし、教会内にあるいじめに目をつぶるのではなく、見張っている必要があるのである。牧師が兄姉をいじめることにも、兄姉が牧師をいじめることも、また兄姉同士でのいじめもあり得るのである。前述のように教会でいじめがあった場合は、最も隠蔽されやすく、また、信仰や教理、伝統、さらには愛という言葉で被われることがあるので最も明るみに出にくいのである。

意図的な〝殺人〟

 牧師のいじめによって神の民が、神の家族の交わりから去る。兄姉のいじめにより伝道者が職を離れたり、痛む。兄姉同士でも、他の社会以上に親しい関係と甘えから、普通の社会以上に異常ないじめにあい、教会を嫌悪するようになることがある。

 とにかく、いじめは、「傷ついた」とは本質的に違う。「傷ついた」は無意識の言葉や行動によって「傷つく」のであるが、「いじめ」は意図的なことである。だから、いじめは意図的な〝殺人〟に等しい。過失傷害や過失致死ではないのである。1人の兄姉のクリスチャン生命や牧師生命を殺すのである。我々は、この神の家族である教会をいじめの温床にしてはならない。絶対に兄姉をいじめてはならない。牧師をいじめてはならない。互いにいじめてはならない。

(つづく)

 ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。

【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第8章 神の家族である愛する兄姉へ 牧師が育てば教会も育つ 細川勝利 2014年6月14日

Image by Dmitriy Gutarev from Pixabay

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