【この世界の片隅から】 牧師教育をめぐるスコットランド国教会の議論 藤守 麗 2024年4月1日

 「牧師をいかに教育するのか」また「牧師となるためにはいかなる資質を要するのか」。これらは、キリスト教2000年の歴史の中で、幾度も議論され、時には分断を引き起こしてきた問いである。一方で、牧師が不足している教会の多くでは、こうした神学的議論は差し当たり脇に置いて、とにかく牧師になるための道を障壁の少ないものへと改革することが、喫緊の課題かもしれない。

 私は現在、エディンバラ大学神学部の博士課程に在籍しつつ、市内の教会でユースワーカーとして働いている。興味深いことに、ここ数カ月の間に、大学と教会を二項対立的に論ずる議論に出くわすことが幾度かあった。とりわけ、牧師職を目指さず聖書学を学んでいる私のような人間は、「頭でっかちな信仰に偏っている」と批判を受けることもある。本稿では、普段は何の気なしに身を置いている、大学と教会という二つの空間のあり方、時にはその間に生じうる緊張関係について考えてみたい。

 エディンバラ大学神学部はその設立からして、二つの役割を併せ持っている。第一は、エディンバラ大学に属する教育研究機関としての役割だ。エディンバラ大学は、多くのヨーロッパのユニベルシタスと同様に、神学教育、具体的にはスコットランド国教会の聖職者を訓練する目的で、1583年に設立された。現在はその研究領域も宗教学、ムスリム研究、科学と宗教、文学と宗教へと拡大している。第二に、スコットランド国教会の牧師候補生を訓練する神学校としての役割だ。1961年、その権利はスコットランド国教会からエディンバラ大学に完全委譲されたが、神学部は依然として国教会と連携して牧師候補生に教育を提供している。

 現在、スコットランド国教会で牧師になる、すなわち聖餐や洗礼を執行するためには、エディンバラ大学神学部を含む五つの提携大学のいずれかで、神学の学位を取得することが必須となっている。これはとりわけ説教を行う上で、聖書を原語で釈義できることを重要視する長老改革派の伝統に由来する。しかしながら、ここ数年加速している牧師不足を受けて、スコットランド国教会内では、学位を牧師任職の必要条項から外すという改革案がある。

 この案を推進する立場の人からすれば、長年教会に通っていればすでに牧師任職に必要な「賜物」は授けられているため、わざわざ大学へ通い学位を取得する必要はないという。また、現在エディンバラ大学を含める多くの大学付属の神学部は、ムスリムやヒンドゥー教など、他宗教研究、宗教間対話に力を入れている。こうした動きをすべての人が否定的に受け止めているわけではないが、同時に「キリスト教の牧師」になる人間が、なぜ他宗教について学ばなければいけないのかと疑問に思う人もあるようだ。

 私個人は、やはり牧師となる上で大学の総合的な神学教育を受けることは重要と考える立場だが、同時にこうした改革案が教会内で生まれてくる背景として、これまでの神学部側の姿勢にも問題があるように思う。少なくともエディンバラ大学に関していえば、地域の教会共同体との近密な対話関係、そして大学内の研究活動を地域に還元するような体系を近年築いてこなかった。

 また私の知る限り、神学部に在籍する学生の中で、スコットランド国教会に出席する者はむしろ少数派である。スコットランド国教会に所属する人々からすれば、神学部は彼らの牧師を教育する場でありながらも、なにやら得体の知れない、自分たちには関わりのない研究機関のように映っていたかもしれない。こうした動きを受け今年4月、神学部に地元の教会の牧師や長老を招いて、教員や学生と交流を持つ集会が企画されている。教員と学生各1名が研究内容について報告するほか、教会共同体に所属する人々はどのような学術研究に興味を持っているのか、教会が直面する問題に大学はいかに貢献することができるのか、聞き取り調査を行う予定だ。

 何よりも、これまで閉じられていた二つの場が、こうして再び対話に開けていることは良い兆しだ。地道な交流を継続することで、今後の信仰、そしてそれを支える知のあり方が議論されていくことを願う。

藤守 麗
 ふじもり・れい 1998年東京生まれ。京都大学文学部キリスト教学専修、エディンバラ大学神学部修士課程聖書学コース卒業。現在は、エディンバラ大学神学部博士課程旧約聖書学コースに在籍しつつ、スコットランド国教会にてユースワーカーとして働く。

Image by jacqueline macou from Pixabay

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