【映画評】 語らないという選択 『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』 2024年4月23日

 1858年、ボローニャのユダヤ人居住区で平穏に暮らしていた少年エドガルドが、突如ローマ教皇のもとに連れ去られる。生後まもないころ、キリスト教徒の家政婦に秘密裏に洗礼を授けられたことが発覚したからだ。「受洗者はカトリック教育を受けなければならない」という教皇の命により、家族からもユダヤ教からも引き離されて、長くローマに囚われることになる。そして13年後の1871年、教皇領が廃止されて自由の身となったエドガルドは何を選ぶのか。

 本作は実話をもとにしている。教会が公然と行った誘拐事件であり、児童虐待だ。今なら宗教虐待とも言われるだろう。こんなことが平然と行われた約150年前を、理解できない野蛮な時代と思うかもしれない。しかし今なお「宗教2世問題」が連綿と続いているのだから、決して遠い過ぎ去った時代の話ではない。誘拐に関与した人間が誰ひとり裁かれないことや、エドガルドが結局キリスト教から離れられなくなることも意外ではなかった。人間を救うはずの宗教が、人間を(特に立場の弱い人間を)虐待する道具にすり替わってしまうのは、今も昔も変わらない。

 自分の誘拐を画策した教皇を敬い、その教えに従い、司祭にまでなったエドガルドは、今で言う「ストックホルム症候群」だったと解釈されやすい。そうでないと彼の選択の不合理を説明できないからだ。確かに教皇に命じられるままに床を舐めるなど、その従順さは絶対のように見える。生き延びるためにはそうするしかなかったのだろう。けれど時折、目が覚めたかのように教皇への憎しみを口走る場面もあり(PTSDの症状のようにも見える)、その心理は複雑だ。

 合理的に解釈できないエドガルドの内面を、あれこれ分析したい欲求にしばしば駆られる。どうして彼はそうなったのか、と。しかし幼少期から理不尽な目に遭わされ続けた被害者に、分かりやすい解釈や説明を付けて理解したつもりになること自体が別の暴力に思えてならない。謎が解明できたところで、エドガルドが癒やされるわけでもない。分からないものを分からないままに残すことも、時には必要だ。

 そう思うのは、筆者自身もカルト化教会で宗教虐待を経験したからかもしれない。教会を離れた今も、筆者はキリスト教信仰を持ち続けている。なぜかは分からない。教会で酷い目にあったのだから、棄教するのが合理的かもしれない。けれども、そう簡単に割り切れるものでもない。そのメカニズムの説明を求められても困る。かといって誰かに分かったつもりで説明してほしくもない。

 エドガルドの行動が不合理だとしたら、それは誘拐や強制的改宗といった蛮行が、彼にとってあまりに不合理だったからではないか。その点、本作がエドガルドの内面をあれこれ解説しようとしないのは救いだ。加害も被害も淡々と描き、ほとんど説明しない。それは制作側の不親切や無理解でなく、むしろ分からないものを分からないままに尊重する姿勢のように見える。

 一方で「ある少年の数奇な運命」という邦題には違和感も抱く。エドガルドは波乱万丈でドラマチックな人生を送ったのではない。誘拐され、改宗を強要され、アイデンティティを大いに撹乱されたのだ。そんな彼の人生に「数奇な運命」と銘打つのは、果たして適切なのだろうか。

 短いながら強く印象に残ったのが、エドガルドが十字架のイエス像の手足から杭を抜き取るシーン。自由になったイエス像は何を語るでもなく、ただ歩き去る。神なのだから何かありがたいことを語っても良いはずだ。エドガルドもそう期待したかもしれない。しかし救い主は沈黙して去るのみ。それ自体はエドガルドが見た幻だろう。けれどこの「語らないイエス」は、本作の象徴のように思える。なぜこんな酷いことがエドガルドの身に起きたのか。彼に対して私たちは何を語れるのか。分からない。どんな言葉も適切でないように思える。だから語らないことが、時に唯一の選択肢になる。

(ライター 河島文成)

4月26日(金)よりYEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町他にてロードショー

© IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS (2023)

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