【映画評】 信念の親指、ある信仰者の雄叫び。 『ボブ・マーリー:ONE LOVE』 2024年5月15日
1978年4月22日、母国ジャマイカを一時は内戦の危機にまで陥れた対立政党の2党首を、ボブ・マーリーはステージ中央へと呼び寄せ2人を握手させたあと、天を仰ぎこう叫んだ。
「ラスタ!」
それから3年後、30代半ばでマーリーは世を去った。『ボブ・マーリー:ONE LOVE』は、音楽ジャンルとしてのレゲエ全体を牽引し、世界でアルバム7500万枚を売り上げる伝説的歌手となったボブ・マーリーことロバート・ネスタ・マーリーの生涯を描く劇作品だ。妻リタや息子、娘らのプロデューサー参加により、その死後に神話化された数多の逸話について、現場を共にした近親者の視点からマーリー当人の内面へと迫る描写が説得的で、過去の伝記作群とは一線を画している。
ボブ・マーリーの舞台上での叫びは何を意味し、夭折する道行きを彼はなぜ〝選んだ〟のか。
その実「ラスタ!」の雄叫びこそ、20世紀を代表する歌手のひとりとなった男ボブ・マーリーの実存を貫く芯であり、彼の創作活動を見渡す鍵になる。
ラスタとはまず、旧約聖書を聖典とするラスタファリ運動(Rastafari movement)の実践者を意味し、またその思想的基盤をなすラスタファリアニズム(Rastafarianism)に基づく世界観を指している。そこでは旧約聖書に登場する古代ユダヤ人のうちハムの一族が、エチオピアやエジプトで暮らす人々として描かれる黒人たち(聖書中における「クシュ」人、後述)の祖先とみなされ、その離散すなわちディアスポラと植民地時代に奴隷化された黒人の新大陸等への移送とが重ねられる。さらにはジャマイカにおいて黒人の優位性を説いた教会が「エチオピア」概念をより実体的なものとして捉えた背景から、1930年即位のエチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世を黒人全体の救世主であるところの神ジャー、すなわちヤハウェの化身と位置づける思想が展開され、ジャマイカにおいては政治を左右する社会運動となった。*1
このラスタファリ運動の実践は生活様式全般に及び、菜食主義やガンジャ(大麻)の推奨に加え、レゲエスタイルの外見的特徴として広く知られるドレッドヘアなどが挙げられる。長髪すべてを無数の細い束へ編み込むこのドレッドロックスとも呼ばれる髪型は、刃物等による身体への介入を忌避するラスタファリ思想の自然回帰的な側面に由来する。晩年のマーリーは足の親指に癌を患うが、この思想ゆえに癌の切除を拒否したことが早すぎる死をもたらした。「エホバの証人」信者の輸血拒否などと同様にそれは、科学的な医療体制へ己の健康を委ねる現代人一般には理解しがたい選択かもしれない。製作陣に近親者を多く擁する『ボブ・マーリー:ONE LOVE』の一つの強味は、マーリー当人の寿命を中断させるこのような非合理的な選択にも、説明的ではない仕方で滋味深い説得力を与えている点だろう。彼の道行きをめぐってはすでに多くの映像作品が制作公開されてきたが、本作のこうした特徴は、それらの秀作群たとえば『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ』や『ボブ・マーリー ルーツ・オブ・レジェンド』などと比べた際により際立ってくる。
端的に換言するならそれは、抵抗の信念だと言える。レゲエに限らずそのルーツでもあるカリプソ、スカやダブ、キューバとプエルトリコ発祥のサルサやボンバ、ブラジルのサンバからアルゼンチンタンゴに至るまで、中南米発祥の音楽舞踊の多くが体制への抵抗という性格を有し、それがため禁制が敷かれることも稀ではなかった。貧民街や刑務所内部で歌い奏で継がれたニュアンスをこれに加味するなら、アメリカ大陸の黒人文化にルーツをもつこれら抵抗の音楽という系譜には、ジャズやヒップホップ、ラップの登場も挙げられるだろう。今日の日本社会ではしばしばみられる「音楽に政治を持ち込むな」という種のそれ自体がよく馴致された脆弱な発想など入り込む隙もなく、土地も宗教も己の名さえ奪われてなお残されたのは口葉の奏でる旋律と、身体に刻まれた律動のみであったこの場所では、音楽こそが政治をえぐる鋭い刃そのものでありつづけた。
レゲエは、ラスタファリ運動における祈りの音楽として始まった。「運動の草創期、カウント・オジーが儀礼にドラムを導入し(中略)ドラムのダウンビートが抑圧的な社会の死を象徴し、軽いアップビートのアケテ・ドラムがそれに応じると、ラス・タファリの力による社会の再生となるのである」。(『ラスタファリアンズ レゲエを生んだ思想』 p.302)
多くの場合、列強の植民地支配下では長らく聖書が奴隷に許された唯一の読み物であったが、共に奴隷船で強制移送された初期の黒人宣教師らが聖書を利用しつつ礼拝に紛れ込ませたアフリカ由来の身体様式と魂の相貌は、こうして音楽の形式をとり数百年を生き延びたのである。ジャマイカ独立後の現代においてラスタファリ運動は、聖書の記述と音楽や文化様式との結びつきを強め自尊心と誇りの基盤とすることで、資本主義に形を変え襲い来る新たな抑圧に抗する力を人々へもたらした。
一方でボブ・マーリーは、還暦を超えた白人の英国植民地陸軍大尉が16歳の黒人少女を孕ませこの世に生を受けている。騎乗の人であった父はマーリーからもその母親からも遠い存在であり続けたが、しかし黒人集団の中でもマイノリティであり続けた白人の父をもつという生い立ちが、マーリーをより烈しく強靭な信念の人へ鍛えあげたことは想像に難くない。母とともに黒人スラムに暮らした幼き日のボブ・マーリーは、文字の読み書きはできないながら当地の民話や聖書の一部を暗記し、つなぎ合わせる詩作の才を示していたという。
このような彼の履歴がもつ複雑性は、ほぼ大西洋限定的な黒人交易という歴史的源泉から「抵抗」の信念を離陸させ、より普遍的な高みへとボブ・マーリーの歌声を引き上げる結果へとつながった。ハイレ・セラシエ1世がクーデターにより廃位された翌1975年に失意のうちに亡くなると、ボブ・マーリーは当時製作中であったアルバムのラインナップにはなかった曲“ジャーは生きている”を発表する。かつてジャマイカを訪れたハイレ・セラシエ本人が当惑するほど興隆していたラスタファリ運動は、こうしてボブ・マーリーの存在によってセラシエの死を通過することで、より広範な社会現象と化し隆盛を極めてゆく。
エジプトから青銅の品々が到来し
クシュは神に向かって手を伸べる
――詩編68編32節
クシュとはナイル上流に繁栄した古代文明を言い、地域的にはエジプト南部からスーダン、エチオピア北部を指すが、この詩篇引用部における「青銅の品々が到来し」とはそれらを持参する王たちの到来を意味し、同時に「クシュ」もまたスーダンやエチオピアの王を意味する。彼らが黒人であったことは、聖書中の文言「クシュ人がその肌を 豹がその斑点を変えられるだろうか」(エレミヤ書13章23節)からも推定される。かつて地中海の過半をイスラーム王朝であるオスマン帝国が統べた中近世、欧州のキリスト教世界では遥か東方に古代からつづくキリスト教国が存在しこの窮地を救ってくれるとするプレスター・ジョン伝説が囁かれたが、その主要モデルでもあったエチオピア王国が古代と中近世を貫いて現代においても歴史を動かすほどの救世主イメージの源泉となり、こうした伝説を希求する人々の想像力を歌声という一縷の流れへまとめ上げることで具現化したのがボブ・マーリーそのひとであったことを考えるとき、彼を預言者か聖人のように崇める人々が出るのも致し方ないことのように思える。
ハイレ・セラシエ逝去時にボブ・マーリー当人が〝ジャーは生きている〟と歌ったように、マーリーの早逝直後にも、病死ではなく暗殺とする説、実は死んでいないとする説などが巷間を賑わせたという。ラスタファリ運動を宗教社会学的に分析するならそこには千年王国主義やメシアニズム、土着信仰や信仰復興主義など様々な要素が読み取れる。興味深いのは、救世主であることをハイレ・セラシエ本人が否定したため、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカによる福音書14章11節)としてラスタファリ運動下でのセラシエの威光はよりいや増したという逸話であり、ボブ・マーリーもまたその人格的な慎み深さ、謙虚さ、堅信ぶりをめぐり残されたエピソードは数多にのぼる。預言者であるか否かでなく、預言者と見做される社会需要の観点から言えば、ボブ・マーリーすなわちロバート・ネスタ・マーリーの道行きは端的に、その条件を満たす事例のひとつであったかもしれない。
ここで着目すべきは、エチオピア正教会の側からみてもラスタファリ運動への応答は一つの宿命的な流れの中で為されている点である。ローマ・カトリックや東方正教会の神性と人性における二性一人格の解釈に対し、エチオピア正教はコプト教などと同様に神性のみの単性論をとり、教会の長である大主教は長らくエジプトのコプト教会から迎えてきたのが、1950年以降エチオピア人となった。そして1955年エチオピア正教会は世界教会協議会に加わり、世界布教へ力を入れるようになる。エチオピア正教会のジャマイカ進出は、こうした文脈下で実践された。ラスタファリ運動に宗教性を認めるか否かといった議論は従って、こうした広い視野を前提すると色彩を全く違えてくる。ボブ・マーリーの葬儀は国葬とされ、ジャマイカ人口の半分がその棺を見送るため路上へ参列したという。式典はエチオピア正教の西半球における大主教の司会で進行され、首相と閣僚たち、対立野党の党首も列席、祈りはゲエズ語とアムハラ語、英語で唱えられた。*2
ボブ・マーリーは自身の国葬や、死後のアイコン化を天国でどう感じているだろう。晩年までボブ・マーリーのマネージャーを努めたダニー・シムズ(Danny Simms)はこう語っている。
「マーカス・ガーヴィー、マルコム・X、マーティン・ルーサーキングといった偉大な指導者のように、ボブ・マーリーは世界に伝えたいことがあると悟った瞬間に、ジッとしていられなくなったんだ。彼にはヴィジョンがあった。彼は我々に彼をレコーディングさせた。そして、それを足がかりにして自分の歌を何度も何度もたくさんレコーディングし続けた。彼は自分が持っているヴィジョンが受け入れられることを望んでいた。それに、彼は自分の歌をあらゆるスタイルでレコーディングすることを厭わなかった。R&Bでもカントリー&ウェスタンでもロックンロールでも、自分の音楽とメッセージを人々に届けられるなら、どんなスタイルでも構わなかった。特にアフリカ系アメリカ人に届けたいと願っていた。そこに自分の音楽が届かないことは彼にとって大きな不満だったろう。けれども彼は、アフリカ系アメリカ人のイコン(崇拝の対象)となった」(『ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック』 p.439)
レゲエのトップスターとして世界に知られて以降の彼には、“Get Up, Stand Up”や“Exodus”,“I Shot The Sheriff”など、聴く者を奮起させ使命や崇高さへ向かわせる曲が数多い。けれど、恋人よ泣くなとただくり返す“No Woman, No Cry”が、たまらなく良いのはなぜだろう。
熾火の前で
貧しさと粥をわけ合った
かつての時間が心を温める
だから大丈夫
涙を見せちゃいけないよ
きっと今よりよくなっていく
今に望む通りになっていく
――Bob Marley “No Woman, No Cry”
癌発症の原因となった、サッカーのプレイ中の足親指への負傷の前年である1976年暮れ、ボブ・マーリーは政治的敵対者と思い込まれた侵入者から銃撃を受けている。自らは左腕を銃弾が貫通し、同じ部屋にいたマネージャーは5発もの銃撃を浴び、妻リタも頭部へ重症を負ったこの事件後、マーリーは英国へ移住する。このとき感受したリアルな死の可能性は、残りの生をめぐるマーリーの信念をより澄明化したはずだ。
育ったスラムでさえ己の出自により疎外され、駆け出しの頃には白人の血が入ったその風貌のため歌う以前に音楽プロデューサーから拒絶された経験をもつ彼が、とうとう母国での命の安全さえその音楽活動によって危うくなるという人生の隘路に嵌る。それでも折れることなく、再び母国で堂々と世界の協和を歌いあげるなかで行ったのが、冒頭に記した両党首をステージ上へ引き上げる1978年のパフォーマンスであった。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議なことに見える」(マタイによる福音書21章42節)。異国の地で足の親指に宿した死病を見つめ、「きっと今よりよくなっていく」と歌ったボブ・マーリーはいったい何を思ったろう。悲嘆に暮れたか。あるいはそこに何らかの使命を感覚したか。民話や聖書のうちへおのが想念を遊ばせた少年の歌声が、長じて宗教と政治の壁を超え、その旋律で世界を深く震わせるに至ったのは、信仰心とも結びつくその強靭な信念ゆえだった。残りの生においてすべきことはその瞬間、すべて明らかになったのではなかったか。
精神の隷属からあなたを解き放とう
自らの心を解放できるのは
他の誰でもなくあなた自身なのだから
核を恐れることはない
だれにも時は止められない
いつまで預言者は殺されつづけるのだろう
いつまでぼくらはただ眺めているのだろう
定めなのだと諦めるひともいる
そろそろ聖書に書かれたことを実践しよう
一緒に歌ってくれないか
これら自由の歌たちが ぼくらの持っているものすべて
贖いの歌
救いの歌
自由の歌
――Bob Marley “Redemption Songs”
信仰を貫いた者こそ贖われる。己を蝕んでくる者へ抵抗しつづけること。癌を抱え死を予感していたマーリーは、聴く者だれにもその魂を解放する力が潜むことを歌いあげた名曲“Redemption Songs”の発表から11カ月後、歌聖として崇められる道行きを受け入れ、大西洋に浮かぶ島に生まれた“黒人”としての生涯を全うし、36歳で世を去った。
(ライター 藤本徹)
©2024 PARAMOUNT PICTURES
『ボブ・マーリー ONE LOVE』
“Bob Marley: One Love” 2024
公式サイト:https://bobmarley-onelove.jp/
2024年5月17日(金)全国公開
『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ』デジタル・リマスター版
“Bob Marley Last Live In Jamaica Reggae Sunsplash” 1980
https://bob-marley-movie.com/
全国公開中
【注】
*1 神を直接名指すことへの忌避から、ヘブライ語「ハレルヤ=Hallelujah」の末尾「jah」を神の代称とした。また「ラスタ」は、ハイレ・セラシエの即位前の名ラス・タファリ・マコンネン(アムハラ語でタファリ侯マコンネンの意)から採られた。
*2 エチオピア国教会の展開とボブ・マーリー国葬の描写は『ラスタファリアンズ レゲエを生んだ思想』p.316およびp.339より。
【引用参考文献/映像作品資料】
『聖書 聖書協会共同訳』 日本聖書協会 2018年
ロイド・ブラッドリー『ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック』高橋瑞穂訳 シンコーミュージック 2007年
レナード・E・バレット『ラスタファリアンズ レゲエを生んだ思想』山田裕康訳 平凡社 1996年
後藤護『黒人音楽史 奇想の宇宙』中央公論新社 2022年
石橋純 編『中南米の音楽 歌・踊り・祝宴を生きる人々』東京堂出版 2010年
シドニー・W・ミンツ『聞書 アフリカン・アメリカン文化の誕生 カリブ海域黒人の生きるための闘い』藤本和子訳 2000年
ウスビ・サコ 清水貴夫 編『現代アフリカ文化の今 15の視点から、その現在地を探る』青幻舎 2020年
『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ』 1980年
『ボブ・マーリー ルーツ・オブ・レジェンド』 2012年
『リマスター ボブ・マーリー』 2018年
『ボンゴマン ジミー・クリフ デジタル・リマスター』 1981年
『ハーダー・ゼイ・カム』 1973年
『ボブ・マーリー:ONE LOVE』 2024年
【本稿筆者による関連作品ツイート】
『ボブ・マーリー ONE LOVE』🇯🇲
レゲエの神様がどう生き、どう死んだか。
ラスタファリ思想上の信念から足親指の癌切除を拒み、36歳で夭折した歌聖の生涯。妻や息子&娘らを製作陣に迎えたことで、神話化されがちな逸話の内幕が質実に再現される。
白人の実父や銃撃事件の犯人との対峙場面など胸熱。 pic.twitter.com/Wx8k3jtU5m
— pherim (@pherim) May 10, 2024
『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ』🇯🇲デジタルリマスター
36歳で逝ったボブ・マーリー、1979年7月母国でのLASTライヴ。その熱狂とスラム街の混沌、ガンジャとラスタファリアニズム。登場する人々の語りも興味深い。rebel music=反逆の音楽、その精髄。 https://t.co/SiJiDUdjBv pic.twitter.com/Wh0zggaCVX
— pherim (@pherim) February 27, 2024
『ボブ・マーリー ルーツ・オブ・レジェンド』🇯🇲“MARLEY”
ボブ・マーリーの短き生涯を、近親者へのインタビューを軸に卒なくまとめる。👣
端正な展開の内にラスタファリ運動🇪🇹のうねりを熱く感じさせる構成に感心するも、モーリタニアンやホイットニーの監督作と知り納得。https://t.co/P70y64gn6E pic.twitter.com/V0LOhql3FH
— pherim (@pherim) May 4, 2024
『サマー・オブ・ソウル (あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』
ウッドストックと同じ’69年夏、NYハーレムで30万人を動員した音楽フェス。
S.ワンダー、ニーナ・シモンらの神憑き演奏、警察でなくブラックパンサー党の警護下で沸騰する群衆の渦。
50年間眠り続けた映像の生命力が熱すぎる。 pic.twitter.com/XUBpHimidu
— pherim (@pherim) August 19, 2021
©2024 PARAMOUNT PICTURES