【映画評】 彼女を追いつめたのは誰か 『あんのこと』 2024年6月4日

 売春と覚醒剤を繰り返す20歳の杏(あん)は逮捕をきっかけに更生を決意する。介護施設で働き、夜間学校で学び直し、自助グループの仲間たちとつながって、その歩みは順調に見えた。けれどコロナ禍が彼女を再び孤立させ、夢を砕いていく。

 『あんのこと』は実話をもとにしている。杏のモデルとなった女性が更生を始めたものの、コロナ禍で苦境に陥る。申請主義の福祉行政は彼女を助けなかったし、緊急事態宣言がもたらした分断は彼女を容赦なく追いつめた。本作はそんな社会システムを静かに批判する。終盤、絶望に打ちひしがれた杏の上空を、ブルーインパルスが颯爽と飛び去っていくのはその象徴だ。

 杏を更生へ導く刑事、多々羅は慈善活動の功罪を体現している。自助グループを通して杏をどこまでも助けようとする、その言葉も行動も嘘には見えない。実際杏にとって彼は頼もしい父親のような存在だっただろう。しかしそれだけに、その言動がもたらす影響は計り知れない。杏を含む、自助グループでなんとか救われてきたメンバー全員の人生を左右しかねないくらいに。

 本作終盤、ジャーナリストの桐野が多々羅に問う。自助グループが存続していれば違う結果になっただろうか、と。キリスト教会の現実を目撃した筆者も、かつて同じような問いに直面した。教会で助けられた人々がいるのだから、そこで傷つけられた私たちの痛みは「仕方ないもの」なのか、と。しかしそれを必要悪と言ってしまうのは、杏を見捨てたこの国のシステムを無批判に受け入れることと同義なのではないか。

©2023『あんのこと』製作委員会

 見ず知らずの子どもを愛深く育てる杏の姿は、前半から後半にかけて「娼婦」から「聖女」に変化して見える。新約聖書のマグダラのマリアに似ている。けれどここで注意しなければならないのは、女性を「娼婦」と「聖女」のどちらかに分類するのが女性差別の常套手段だという点だ。「娼婦」は容赦なく貶められるし、「聖女」は完璧な女性(あるいは完璧な母親)であることが求められる。どちらにしても女性への抑圧として働く。だから「娼婦」「聖女」という分かりやすいラベルを貼ることは、杏とマリアのリアルな生を不可視化するだけでなく、新たな抑圧の下に置くことになりかねない。

 杏はもともと責任感の強い努力家だったと思う。だから介護施設で働きながら夜間学校に通い、家でも勉強に打ち込めたのだろう。無理やり押し付けられた男児の世話も(そんな義務はないのに)献身的に行った。その真摯で着実な更生の歩みは希望に満ちていて、初めから何も問題などなかったかのように錯覚させる。

©2023『あんのこと』製作委員会

 けれどそこまでパーフェクトにがんばることだけが更生ではないはずだ。働けなくても勉強できなくても、更生の道はそれぞれにある。けれど努力や立身出世を美徳としがちな日本では、杏のひたむきな姿こそ「あるべき更生」に見えてしまいそうだ。しかし、それはかえって誰かの更生を妨げることになるだろう。「更生してまっとうに生きる」というフレーズに、私たちは過度に清廉潔白なイメージを抱いていないだろうか。

 本作において杏を助けるのは民間の人々だ。というのは福祉行政の施策が、杏のような境遇の女性を支援するのに必ずしも十分でないからだ。2023年に新宿で数々の妨害にあった女性支援団体に対して、業務委託していた東京都が中止要請したのは記憶に新しい。同団体は活動規模の縮小を余儀なくされ、結果的に杏のような女性が少なからず取りこぼされることとなった。

 杏はコロナ禍中の緊急事態宣言により、他者とのつながりを失う。こうして公助からも共助からも切り離され、無人の繁華街をさまよい歩く杏に対して「かわいそう」とか「自己責任だ」とか言うのは的外れだ。彼女を追いつめた社会システムは私たちが作り、私たちが維持しているのだから。本作が描くのは「あんのこと」でなく、「私たちのこと」なのだ。

(ライター 河島文成)

6月7日(金)新宿武蔵野館、丸の内TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開。
公式サイト:https://annokoto.jp/
配給:キノフィルムズ

©2023『あんのこと』製作委員会

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