葬儀・終活から宣教へ 未信者にも開かれた葬儀を提言 清野氏「〝一般恩恵〟に基づき可能」 2024年7月11日
教会で未信者の葬儀を挙げることができる神学的根拠について清野氏は、オランダ改革派教会のアブラハム・カイパーによって提唱され、1980年に日本の改革派教会が訳した「一般恩恵」と「特別恩恵」の概念を紹介。「一般恩恵」とは「罪と咎の中に死んでいる人類でも、直ちに滅ぼすことなく、神のかたちを保存し、救いの可能性を残しておいてくださる神の驚くべき好意的姿勢」と解説し、「未信者の故人も神から『生』を受け、ある期間、その存在を許されたという事実を尊重し、未信者の葬儀をすることにした」と自身の経験を語った。
遺族を慰める通過儀礼としての葬儀の意味を強調した清野氏は、未信者の葬儀を「故人がかけがえのない人格的存在者であったことを明らかにして、遺族の悲嘆に共感しつつ、その一生を受容し、創造者の憐れみに委ねて、遺族の慰めと支えを神に祈り求める営み」と位置づけ、葬儀説教では遺族を慰め、教会に心を開いてもらえるよう努力し、十字架と贖いを語ることにこだわらず、式文の祈りの中で「特別恩恵」への言及は避けるようにしているという。さらに、故人を「受け入れてください」「憐れんでください」と願う「執り成しの祈り」に対し、「ただ神の御心(御手)に」と「委ねる祈り」が可能だとし、次のような祈りの実例を紹介した。
「命の創造者なる神様。私たちは地上の肉体はあなたの定めた如く、必ず滅びて土の塵(ちり)になることを知っています。しかし新しい天と地が成就する時、あなたは私たちに、この有限な肉体に代わり、時間をも超越した不思議なからだを纏(まと)わせてくださると約束されました。私たちは、その希望を望みつつ、あなたの憐れみに頼り、今あなたが創造された○○の身体をあなたの御腕に戻し、愛する○○をあなたにお委ねいたします。すべてのものの最後を美しくしてくださるあなたの慈愛にすがりつつ、救い主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」
最後に「『一般恩恵』に基づく未信者のキリスト教式葬儀をしていく時に、日本の教会は、『仲間の死』だけでなく、『人の死』を取り扱う成熟した宗教と認知されていく」と清野氏。逆に「『一般恩恵』に基づく未信者のキリスト教式葬儀を実践しないなら、キリスト教葬儀はクリスチャンたちの仲間だけの秘儀となり、キリスト教は家族に分断を持ち込む、外国の宗教であり続ける」と警鐘を鳴らし、「キリスト教葬制文化を開拓していこう」と呼び掛けた。
続くディスカッションでは、大和氏が「葬儀の問題は日本宣教にとって解けない難問」とし、結婚式に比べて未信者の葬儀が教会で浸透しない理由について、中国伝来の祖先信仰が偶像崇拝を想起させているからではないかと分析。「日本の教会は、十字架と贖いを宣べ伝えることや個人の回心にばかり偏重してきたのではないか。極端な二元論に陥ることなく長期的にとらえるべき」と清野氏が加えた。これまで教会の関係者からは、「未信者が結婚後に救われる可能性はあるが、葬儀を挙げたところで故人が救われることはない」との反応もあったという。
普段、相続診断士として未信者と接することの多い高橋氏によると、キリスト教に無縁の遺族にとって、教会で葬儀を挙げるという選択肢はまずない。葬儀社からは当たり前のように家の宗門を聞かれるのが現状。家族の中で自分だけがクリスチャンで、肩身の狭い思いをしている場合などもあり、未信者にも葬儀が開かれていくことの意義は小さくない。
近年の葬儀の傾向について紹介した野田氏は、葬儀や納骨について教会が持つ可能性をもっと発信すべきと語り、このような議論の機会を教会でも積極的に設けてほしいと呼び掛けた。
終盤は参加者がグループに分かれ討論。「教会員の3親等までは受け付ける」という明確な規定を設けた教派がある一方、教会が個別のケースで判断している場合が多く、教会でどう基準を作り、合意形成できるかといった課題が共有された。