追悼特集 小林和夫(東京聖書学院名誉院長)インタビュー 「牧師でないお父さんなんて嫌」 【シリーズ・日本の説教者】
雑誌「Ministry」の連載「シリーズ・日本の説教者」で2009年秋号にご登場いただいた小林和夫さんが、2024年8月15日に亡くなった。故人を偲んでインタビューの抜粋を掲載する。
日本ホーリネス教団の名説教者、また「きよめ派」の神学的リーダーとして名が知られる小林だが、その活躍の場は教派も国もメディアもゆうに超えている。東京聖書学院、東京ミッション研究所、福音主義神学会、アジア神学大学院、日本FEBC――。聞けば聞くほど、「福音派」の枠には収まらない懐の深さに圧倒される。御年76歳。その口からつむぎ出される説教は、大病を患い、死の淵をさまよったとは思えない若さと情熱に満ちあふれていた。
「転」にポイントを置く説教
小林が説教学を学んだのは、トリニティー神学大学のロイド・M・ペリー。その教えに従い、説教作りに際しては、まず全体の構成を組み立てる。とりわけ今回の説教は、三つに区切った、いわゆる「スリーポイント説教」。ともすると、箇条書き的でスタティック(静的)なものになりがちだが、小林の説教にはダイナミックさがある。
「私はもともとスリーポイント説教ではなかったんです。しかし留学時に、こうやったほうが聞いている人たちは安心して聞いてくれるんだなと思って、それを踏襲してやっています。日本では、三つの説教になるんじゃないかという批判もあったらしいですけど、そうではなく、ひとつのテーマをいろいろな角度から見てみるということでやってきたんですね」
ペリーによれば、冒頭の緒論は、会衆と説教者とが互いに「よろしくお願いします」とコミュニケートするところ。聴衆を見ていると、話の内容がわかっているかどうか、顔つきでわかるので、前回の説教に触れたりしながら話すのだという。
「例えば旧約におけるきよめの儀式の問題と、そこに血潮の問題が出てきますから、それをイエス・キリストにおける血潮の価値ということと、その力というふうに展開していくんですね。だから、スリーポイントというよりはむしろ、展開の途上において今までを振り返っているわけです。なかなか骨の折れることですよ」
ペリーの影響もあり、開拓伝道の頃から変わらず講解説教を続ける。50年前のホーリネス教会で講解説教は珍しく、「教理を聞いているようだ」と言われた。しかし、小林ならではの工夫も重ねてきた。そのひとつが、最後に結論を言うのではなく、結論を踏まえながら起承転結の「転」にポイントを置く説教法。その妙技は、東京聖書学院の同級生でもある村上宣道(ラジオ「世の光」のメッセンジャー)をして、「おまえの説教には仕掛けがあるから、うっかり聞いていると後でひっくり返される」と言わしめた。
説教が生まれるまで
そんな小林の説教はどこから生まれてくるのか。その謎を解く鍵が、小林邸の地下室にあった。今回のインタビューに際し、特別にその内部を拝見させていただくことに――。おそらく本邦初公開。
狭いエレベーターを降りると、そこはまさに異空間。まず飛び込んできたのは、床一面に張り巡らされたOゲージのレール(鉄道模型)と、天井で翼を広げる模型飛行機。「昔は上手に飛ばせたんだけどねえ」と愛機を見つめる小林の眼差しは、まさに少年そのもの。そして、壁一面には貴重な蔵書の数々がある。そこから取り出した1冊の古文書。実は、これこそが説教作りの原点なのだ。ひとまわり大きな紙に貼りつけられた聖書本文の余白に、びっしりと書き込まれたメモと線。車田秋次の教えを受け、長年かけて自ら作ったというオリジナルの〝注解書〞である。かつて造船技師を目指したこともあるという小林ならではの実に緻密な作業が全ページにわたって凝縮されている。まるで、聖書という大海原をのぞみ見る航海図のよう。
「準備の時に釈義などを全部書き出すと4、5枚の紙になるんですよ。説教では原稿を読むわけにはいかないので、そのメモを1枚のメモ用紙にまとめるんです。恩師から、『原稿を書くのもいいけれど、聖霊にゆだねて語る部分がなきゃいけない』と教えられたので」
今日の説教がメモ1枚に集約できるのも、あの膨大な「書き込み」があったからこそだろう。具体的な準備の流れはこうだ。注解書を見る前に、日本語のテキストを少なくとも3回繰り返し読んで、黙想しながら原典にあたる。それから、教父の聖書注解をまとめた本を読む。人訳がある英語の聖書も参照する。ヘブル語やギリシア語の「ニュアンスをつかむ」ため、理解を助ける辞書は常に寝床に置いているという。
「必ず原典で読み返すんですよ。ギリシア語はなかなか味がありますでしょ。日本語に表現されていない意味や使用法に触れると、それが必ず人々を惹きつけ、『ああ、そうか』という感じを与える、そんな感じがしますね」
そしてもちろん、釈義を踏まえることも忘れない。
「ホーリネスの信仰というと、伝統主義の硬直化に対抗して個人主義的な信仰のとらえ方をすることが多いんですが、やはり私は、教会の2000年の歴史を非常に重要視するんですね。教会が2000年生きてきたこのいのちとは何だろうかということが、私たちの大きな課題の中になければいけない。歴代の学者をはじめ、キリスト教の持っている遺産はすごいですよ。だから、教会史の2000年を侮っちゃいけないって、本当にそう思います」
そうした広い視野を持てたのは、渡辺善太をはじめ、教派を超えて良い教師たちに出会えたからだと小林は言う。長い歳月と幾多の労苦を重ねた結果、教派の枠にとどまらない、独自の小林流「説教論」が生まれたのだ。
「説教は苦労しないと駄目ですね。ただ何かを聞いたとか、新聞で読んだことなどが説教のテーマになってはいけない。それに対する何らかの神さまからの恵み、憐れみ、サゼスチョンなどがあるのではないかという立場ですね。もちろん、聴衆をわきまえるという意味で、新聞も雑誌も読みますけどね」
開拓伝道の苦労と試練
開拓伝道を始め、経済的に苦しい十数年。ようやく教会が軌道に乗り始めた頃、もうひとつの大きな転機が訪れる。それは、3年間、闘病を続けてきた妻との死別。
「家内は本当に苦労したんです。教会が何とかできるかな、まさにこれからっていう時だったので、それについては私もずいぶん心傷んだんですよ。よくあの時期を乗り越えられたなと思うんですけど。死のうなんて思ったことはなかったんですが、発狂するんじゃないかとは思いました。人間は実存なんて言ったって、その実存そのものを支えているものがなかったらやっていけない。私などは若い頃から鉄道模型が趣味でしたが、そんなものは何の役にも立ちませんでしたね。当時、どういうふうに過ごしてきたのか、今ではよく覚えていない。まるでずっと雲の上を歩いてきたような感じでした」
長男はまだ中学生、長女も東京女子医大の看護科に入学したばかりだった。すでに聖書学院の院長も務めていた小林は、牧師を辞めて学校の教師だけ続けようかと思い悩む。しかし、長女のひとことがその迷いを払拭させた。
「牧師でないお父さんなんて嫌だ」
47歳の父・小林も、これにはさすがに参ったという。しかし、この言葉があったからこそ、今日の小林がある。
一時は婦人会のメンバーが減る困難な時期を経て、教会も小林自身も少しずつ癒されていく。2年後、恩師の勧めもあり、今の妻と再婚を果たした。現在は副牧師として、また廻田クリニックの院長として共に福音の荷を負っている。その後は教会も順調に成長し、最盛期には250人ほど集まるようになった。さらに、この教会から青梅、狭山、下山口に新たな教会が起こされていく。
「牧会というのは、信徒が100人を超えると、ひとりでやるのは無理なんです。株分けすれば母体がしぼむかと思えば、そうならないで、いまだにみなさん、よくやってくださいます」
現在、教会は東京聖書学院のチャペルを間借りしているが、普段の礼拝には200人近い会員が集まる。
「とにかく、僕は伝道が好きなんです。伝道は苦しいけれども、苦しみの中から生み出される喜びというのが伝道で
すね。学者には悪いけれども、こういう喜びはないんじゃないかと思う。振り返ってみると、私は良い教師に恵まれました。そして、伝道を好きにさせられた。ありがたいことだと思うよ」
その言葉には、さまざまな困難と試練を乗り越えてきたゆえの重みと、突き抜けた輝きがある。
(聞き手・平野克己/撮影・春田倫弘)
*全文は同シリーズを単行本化した『聖書を伝える極意 説教はこうして語られる』(キリスト新聞社)に収録。
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こばやし・かずお 1933年山梨県生まれ。東京聖書学院卒業後、東京中央教会で青年部を担当。名古屋で開拓伝道に従事。59年に渡米し、アズサ・パシフィック大学、トリニティ神学大学(M.Div.)、ノーザン・バプテスト神学校(Th.M.)で学ぶ。母校のアズサ大学より名誉法学博士(LLD)を受ける。帰国後、東京聖書学院で教鞭をとりながら、東京聖書学院教会の開拓伝道を始め、1976年から27年間にわたり東京聖書学院院長を務めた。著書に『新聖書注解・旧約3』「詩篇」『小林和夫著作集』全10巻(いのちのことば社)、『イザヤ書講解説教』『エペソ人への手紙』『栄光の富』(日本ホーリネス教団出版局)、『詩篇随想』(ヨベル)などがある。
【Ministry】 特集「牧師館からの〝SOS〟」 /対談「病める時代の牧師サバイバル指南」香山リカ×関谷直人 3号(2009年9月)