【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(18) 祈れない人へ(これから信じるあなたへ③) 福島慎太郎 2024年9月18日
教会で高校生と話している時、こう言われた。「祈りたいことがたくさんあるけど、どれを祈ればいいのか分からない」。少し言葉にひっかかったので「〝どれを〟ってどういう意味?」と尋ねた。すると彼は「神様の前にふさわしい祈祷課題がどれか分からない」と答えた。
一見素朴に見えるが、実は深い意味を持った悩みではないだろうか。「真理は自由をもたらす」と教会で聞き、信じているはずだが、実際は神様の前で「あれを言っては怒られるかも」や「これは祈祷課題にあげない方がいいかも」という無意識の不自由さが僕たちにはあるかもしれない。
どうして祈りにおいて不自由さを覚えてしまうのか。このことについては大きく二つの要因があると思う。
一つは自分の失敗である。「神様お願いします! あぁ、でもこれって俺があの時こうしておけば……」。人間関係や進路選択、その時に別の選択をしていればと自らに責任を感じるケースだ。この悩みは大人であっても抱え続ける。歳を重ねると性愛の問題や金銭トラブルなど、クリスチャンだからといって誤らないとは断言できない。
もう一つは祈りの内容である。別の学生が教会でこう言ってくれた。「こんな小さな内容、神様に祈るのはどうかと……」。教会で見る牧師の荘厳かつ複雑な祈りに、ある人々は神様への願いは高尚なものでなければいけないという固定概念があるのかもしれない。そもそも「高尚な願い」ってなんだか知らないけど。
ここまで見ると、祈りを足踏みさせる理由は総じて「祈る資格がない」という僕たちの経験や心理にあるのかもしれない。では、逆に努力や何かを達成することが必要なのだろうか? それもまた聖書はひと言も触れていない。じゃあ一体祈りってなんなんだ!? だんだんと混乱してきた。
今日、僕たちはここで少し視点を変えてみたいと思う。「僕たちの祈れない理由」ではなく「神様が僕たちに祈れという理由」を見つめてみないか。教会では頻繁に「祈りましょう」と耳にする。しかし、そもそもの「なぜ祈る」のか、そして「なにを祈る」のかを見つめ直す機会は少ない。この問題を抽象的なまま放置しておくと、僕たちは自分の経験や直感を下敷きとした自己流の解釈に陥り、一層苦しんでしまうだろう。
「祈り」について、ボンヘッファーは「なぜ」と「なにを」の二点を明確に答えている。まず彼は「なぜ祈るのか」についてこう考える。
それは、わたしが、自分自身からは受けず、すべてのことをただ神にのみ乞い求めるべきだからであり、そのすべての賜物のゆえに、神に感謝したいと願っているからです。(*下線筆者)
下線部に注目したい。聖書は「なぜ祈るべきなのか」という問いかけについて、実は明確に答えていない。しかし、あなたの願いや思いをただ「神にぶつけろ」とだけ語っている。
人は生きているとさまざまな思いを抱える。その中には喜びや感謝だけでなく、苦悩や嘆き、さらには悲しみや喪失感などもあるだろう。聖書はその感情を抱くことや吐き出すことを一切否定していない。しかし僕たちは負の感情についてはとかく他人や自分に向け、解消されることもなく、時に「負」そのものに餌を与え続けているような悪循環に陥ることがある。大切なのは「誰に」その思いを預けるかだろう。
次にボンヘッファーの「なにを祈るのか」について見てみたい。
子どもが父親に乞い求める・肉体と魂とに必要なすべてのことのためにです。
ここには二つのポイントがある。一つは「子どもが父親に」である。これを聞くと心が痛くなる人もいるかもしれない。現代は「普通」の家庭という理想像はすでに崩壊しており、不仲や機能不全を起こしている親子関係も珍しくない。だが、もう一つ忘れないでほしいのは聖書の神様も決してバランスの取れた微笑ましい父親ではなかったということだ。
放蕩息子のたとえ話が聖書にはある。ここに登場する父親は、自分の息子が財産をギャンブルや女性関係で湯水のように使い、食べるものがなくなったあと、家に戻ってきた時に叱るのではなく抱きしめたという。そしてこの父親こそ神であり、息子こそ私たち人間であるとイエスは語る。この物語は教会で美談のように語られる。しかし僕はここに美しさを感じないし、むしろ崩壊した一つの家庭の実情が存在していると思っている。
この物語で最も問題があるのは息子よりむしろ父親だ。普通に考えれば家の財産を使って好き放題遊ぶなど言語道断。僕も中学生のころゲームセンターでお小遣いを使い果たし、全財産が20円になった時、父親に泣きついたら「馬鹿野郎! お前が悪い!」と怒られた。ましてこのたとえでは息子によって一家の貯蓄を奪われたのであり、裁判が始まってもおかしくない。しかし父親は「お前が帰ってきてくれたならそれでいい」とむしろ涙を流した。
ある意味で大馬鹿者だ。叱るべきところで叱らず「そんなお前でも、いやお前だから」と抱きしめる。なんて不器用で、そして真っ直ぐな姿なのだ。しかし、人間もまたそんな器用に生きられないのが現実だと思う。僕も今は牧師をしているが、墓場に持っていかなければならない黒歴史は1個や2個では済まない。誰もが失敗するし、人に言えない悩みがある。と、書くと自分を正当化しているみたいだな。でも、これが聖職者のリアルだ。
そんな姿を知っているからこそ、この父親は息子を抱きしめたのだと思う。そしてここに登場する父親が神の姿だとするならば、神もまためちゃくちゃ不器用で、馬鹿正直なのだ。何に馬鹿正直か。それは子どもたちがどんな姿でも愛しているということだ。もっと言えば過去や失敗も含め、今この瞬間すべてを受け止めようとする。僕たちがどれほど失敗して、傷ついて、泣きついても「よく戻ってきてくれた」とその手を今も伸ばしているのだ。
もう一つは「肉体・魂とに必要なすべて」である。祈りとは教会の奉仕や霊的成長のためだけにささげるものではなく、僕たちの日常のすべてが含まれている。先ほどの高校生が言ったように「こんな小さな内容……」と尻込みしてしまう時、それは「誰にとって」小さいのかを考えなければならない。僕たちにとって些細なことは神にとっても些細なことなのだろうか? むしろ不器用で馬鹿正直な神は今日も僕たちが何を祈るのか、その一つひとつの言葉を聞き、汲み取り、必要なものを与えようとしているのではないだろうか。
これらを軸にすると、祈りを躊躇してしまうのは実は僕たちの中にある「神様のイメージ」や「表面的な謙虚さ」が原因なのかもしれない。繰り返すが、祈りとは何か決まった作法や人間の努力から生まれるものではなく「まずはぶつけろ」という神の声から始まる。そこで求められるのは形より正直さ、美しい信仰者ではなくあるがままのあなたの姿だ。その時、神は大馬鹿者と思えるほど、今日も人々が生きている中であふれ出る声をこぼれ落ちることなく拾い上げようとするだろう。
そんな不器用な父と子どもの間から生まれる一つの家庭の様子、ここに祈りの本質があると僕は信じている。ちなみにボンヘッファーは『キリストに従う』という本をはじめ、神と信仰者を親子関係にたとえることが多い。その背景を意識しながら彼の本を読むと、また違った印象を持つかもしれない。
今、あなたが声に出したい願い、あふれ出しそうになっている不安や不満はなんだろうか。よく自分の心を見つめてほしい。そしてその想いに諦めという名の蓋をしようとはしていないだろうか? 自分の過去や今の生き方を見て「こんな祈りはふさわしくない」と必要以上な謙虚さで一歩引き下がろうとしていないだろうか。しかし、ふさわしいかどうかを決めるのは神である。そして今日もその方は僕たちの元へ駆け寄り、どんな姿であろうが抱きしめ、その声を聴こうとしている。ならばまずひと言、一緒に声を出してみないか。「神様、祈るよ」と。
引用:D・ボンヘッファー、森野善右衛門訳『現代信仰問答』
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。
【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(17) クリスチャンとは?(これから信じるあなたへ②) 福島慎太郎 2024年8月15日