アジアキリスト教研究の発展に寄与 徐正敏氏(明治学院大学キリスト教研究所前所長)インタビュー 「〝幸せに生きていくため〟に来日」 2024年9月20日
今年度で明治学院大学を退官予定の徐正敏(ソ・ジョンミン)氏=写真=に、これまでの人生と研究、今後のビジョン、注力していくことについて聞いた。徐氏は韓国の延世大学で学んだ後、日本に留学して同志社大学の土肥昭夫教授に師事。帰国後は延世大学で教鞭をとっていたが2008年、サバティカル(研究休暇)で来日し、明治学院大学で教える機会を持った。それが契機となり11年、同大に着任。12年からは延世大学での専任教員の地位をなげうって、完全に日本に拠点を移すようになった。明治学院大学では研究・教育活動を行う傍ら、一昨年度までキリスト教研究所の所長を7年間務めた。学外ではキリスト教史学会などで後進の育成にも力を入れている。
――なぜ日本に来られるようになったのか、どういう経緯があったのか、お聞かせください。
徐 私が日本に来るきっかけとなった人物としては、二人を挙げることができます。一人は韓国の民主化運動の際にT・K生のペンネームで活動した池明観(チ・ミョンガン)先生、もう一人は蔵田雅彦という方です。蔵田先生は東京大学出身で、後に桃山学院大学の教授になった方ですが、私が大学院生だった頃、40代で延世大学に留学してきて出会うようになりました。年齢は私よりかなり上だけれど、ヒョン(お兄さん)と呼ぶくらい親しくなりました。彼が研究していたのがアジアとキリスト教、キリスト教社会学で、私もその関心に共鳴するところがありました。私は当時、1980年代半ばごろ、家族を連れてアメリカに留学に行くことを考えていたのですが、ヒョンと話すうちに、自分と関係のないことを研究対象とするよりも、自分の国のことを研究した方がいいのではないかと考えるようになりました。いい意味でも悪い意味でも日韓関係を無視することはできないのではないかと思うに至ったのです。
――当時から日本語はある程度話せたのでしょうか?
徐 いえ、日本語はまったくできませんでした。世代的に、私の両親は日本語がペラペラでしたが、私はわざわざ日本語を学ぼうとはしなかったのです。しかしヒョンが韓国語を学び、韓国のことを勉強しているのを見て、私も日本のことを知るのがいいのかもしれないと思うようになりました。私がアメリカ留学をやめて日本に行くと決めたとき、すでに蔵田先生は日本に戻って桃山学院大学の教員になっていたのですが、相談すると、同志社大学の土肥先生を推薦してくださいました。それで80年代後半、韓国に妻と子ども2人を置いて、単身、日本にやってきたのです。京都での留学時代3年半の最初は、日本語の勉強に明け暮れました。1日17時間、ひたすら勉強するとか。ヒョンも音声を吹き込んだテープを作ってくれたりして、全力で助けてくれました。家族を連れて来ていたら、あのような時間の使い方はできなかったでしょうね。
――土肥さんの指導はどんな感じだったのでしょうか?
徐 土肥先生から教えてもらったことなんですが、大きな広い世界を理解するために、我々は高い山の頂上に登って、そこから天から地まで眺めるといいだろうと思いがちです。しかしそれは、研究ではなくジャーナリズムです。全部わかるようでいて、全部わからない。ドアスコープは狭い穴からのぞくけれど、広いところまで見える。歴史の主人公は誰かといえば、人間です。人間が動かしていきますから。アカデミックに歴史を研究するなら、人物研究から始めるほかない。重要な人物1人を選んで、その人というドアスコープから世界を見ていくものなのです。土肥先生はそう話して、研究対象とする人物をまず選ぶように言いました。私の場合は内村鑑三=写真下=を選びました。
次に土肥先生は、内村の資料目録を作成するという宿題を出しました。そこで毎日10時間以上図書館に籠って調べて、内村の著作や先行研究をノートに3600あまり書いて持っていきました。すると先生はにっこり笑って、「すごい。よくがんばったね。お疲れさま」と言いながら、次の宿題を出されました。それは、その中で内村と韓国に関するものを選ぶというものでした。内村の資料は膨大な数に上り、全部に目を通すことだけでも難しいのですが、韓国に関するものは先行研究を合わせても10個ほどしかなかった。つまり、しっかり研究を行えば、この分野で最高のものを書けるということです。そうして内村を通して日韓関係をみるというテーマに取り組むようになりました。
3年間で日韓キリスト教関係論をまとめることができ、蔵田先生がいる桃山学院大学の紀要で最初の日本語論文を発表しました。学位論文ではありませんが、これが研究のスタートとなりました。
今では私も学会で長老のようになりましたが、土肥先生から教えていただいた方法論や指導の態度が土台になっています。一生忘れることができない学恩です。
――日本での留学を終えて、延世大学での専任教員というポストに就かれた徐さんが、再び日本に来ることになったのは、何か特別な事情があったのですか?
徐 確かに周囲からは驚かれました。学長からも教員仲間からも引き留められました。しかし韓国の有名大学には政治的葛藤があり、私はそういう側面が嫌いでした。具体的なことを話すことはできませんが、ひと言で言うなら「幸せに生きていくために」やめたのです。ご存じのとおり、私は身体に障害のあるマイノリティで、マイノリティで延世大学の専任教員になった人は私以外に2~3人しかいません。業績がなければ教授になれないからです。私は50冊以上、韓国語で書籍を著わしました。12年間教えたので、教え子も多くいました。一方、日本に来たら日本語で生活して教えて……とストレスになることが多いのは目に見えていました。しかし、やはり大切なのは価値観ですね。神の前で恥ずかしくない生き方をしていけるよう、良心を守れるよう、「幸せに生きていくために」日本に来ることを選びました。
――京都の同志社大学で学んだ徐さんが、今度は東京の明学に来られた理由は?
徐 2008年、延世大学のサバティカルで、大西晴樹さんと李省展さんに相談したのですが、大西さんがさっそく動いて明治学院大学の招聘教授として迎えてくれました。明学には海外から来る人のためのゲストハウスがあり、家族も一緒に来て暮らすことができるように手配してくれました。こうした配慮も大きかったと思います。2011年から明学に着任し、翌年、延世大学の方を完全にやめるようになりました。日本に来たことも、明学に来たことも、人間関係の影響が大きいといえます。嶋田彩司さんや小檜山ルイさんや……全員の名前を挙げることはできませんが、仲間や友人が私と私の家族を温かく迎え、私の研究の意義を理解し、活動の場を作ってくれたのです。
着任してすぐ行ったのが、アジア神学セミナーの開講でした。このプロジェクトはアジアキリスト教研究講座と名前を変え、現在も活発に続けられています。日本では聖書や神学というと西洋思想の枠組みで捉えられることが多く、明学でも宣教師や西洋の神学が中心でした。しかし明学は日本で一番古いキリスト教主義の学校で、元々は神学部もありましたが、それがなくなってキリスト教研究所ができました。ここでこそ日本のキリスト教、韓国・中国といったアジアのキリスト教をやるべきであると考えました。これからもアジアキリスト教のアイデンティティを守っていくのがいいと思います。
――退官後のビジョンを教えてください。韓国に戻られるのですか?
徐 日本での生活を整理するために一旦は韓国に戻りますが、明学のプログラムも学会もあるので、これから少なくとも1年のうち約3カ月は日本で明学のゲストハウスに滞在すると思います。同志社大学で論文指導教授をしており、それも続けることになりそうです。個人的な活動としては、今年10月末に論文を15本収めた本を出版する予定ですし、大学から私の記念号が刊行されます。しかし今後はアカデミックな論文はあまり書くつもりはありません。そうしたことは教え子たちが十分できることですから。それより、私にしか書けないエッセイを執筆したり、絵を描いたりしようと思います。信仰者として意味あること、価値あることに力を注ぎたいですね。自分が幸せだと思うことのために。
私は境界線上の存在が重要だと考えています。以前、自分を在日ディアスポラだと本に書きましたが、私だけでなく日韓の間に立って両者を介在する、橋のような役割を果たす人たちがいます。そういう人たちはマイノリティですが、マイノリティの中から価値あるものが生まれます。ユダヤのイエスや、キリスト教がマイノリティであったときに最も純粋だったように。だから、マイノリティとしてのアイデンティティを持っていくことで、これからも意義ある役割を果たすことができるだろうと考えています。
――ありがとうございました。
(編集部)
*明学キリスト教研究所のアジアキリスト教講座、秋学期最後の講義は徐氏が担当する。申し込みは9月30日まで。
2024年度 アジアキリスト教講座開催(春・秋学期)