【この世界の片隅から】 憩いの場としての華人教会 遠山 潔 2025年2月11日

最近、よく目にするようになった中国語の言葉に「内巻」(involution)というものがある。元々、人類学の用語として使われていた言葉だったようだが、現在、中国ではこの「内巻」が「不条理な内部競争」という意味で多くの人に使われるようになっている。『闇の中国語入門』(ちくま新書)の著者・楊駿驍によると、この言葉は「中国社会全体が直面している問題を適切に表現し」(169頁)、「社会全体を巻き込んだ大きな議論を引き起こして、人々の現実認識まで変えてい」るという(170頁)。
これは何も中国だけに見られる社会現象ではないのかもしれない。アジアの多くの国においても類似した状況というのは多かれ少なかれ見られると言っても過言ではない。小さいころから、この激しくエスカレートし続ける競争社会に身を置かざるを得ず、この状況はある意味、致し方ないという思いを抱いている人も少なくない。しかし、同時に、ライフワークバランスを崩し、家庭内において深い傷を負わせてしまっていることも看過できないことである。
そうした中、今、注目されているのが、いわゆる「移民」傾向である。パリの華人教会にはそうした移民を目指して集まっている大陸出身者が急増しているという。それぞれ目的があり、考えがあってこの場に集められているのであろうが、中には疲労困憊した表情で教会の礼拝に初めて来た人もいたという。だが、この教会での出会いとひと時の交流が彼らの心を癒やし、新たに生きる力をみなぎらせているともいう。

写真=A.Z.
この教会は、中国語部とフランス語部とに分かれて礼拝をささげているという。中国語部には高齢者や20代、30代の若者でフランスに来たばかりの人たちが集う。一方、フランス語部には移民の子どもたちである第2世代の若者たちが中心となっている。彼らにとって、フランス語が母語となりつつあり、中国語は主に聞き取ることはできるが、読むことはそれほど得意ではないという。親が中国語で語りかけ、子どもたちがフランス語で答えるという光景がよく見られる。
近年、大陸での不条理でありかつ過激な競争社会を忌避する人が増えている中、海外へと移り住もうとする人が逓増しているのも説明がつくような気がする。そしてそれは何も欧州だけでなく、この日本においても見られるのではないか。ますます多くの大陸出身者が長期滞在を目指して入国していることは、今後の我々日本の教会にとっても決して他人事ではない。隣人として、彼らを我々はどのように愛し、相互に仕え合い、伝道していくことが求められるだろうか。言葉の壁が依然として存在する中、信仰共同体としてどのように歩むことが求められているのか、多くのことを考えさせられる。
パリの華人教会にある高齢者がいた。教会の椅子に座りながら、外にその眼差しを向けていた=写真下。その哀愁を感じさせる後ろ姿が何とも言えない雰囲気を醸し出していた。何を思い起こしながらその時間を過ごしておられたのだろうか。ご自身の今までの営みについて思いにふけていたのかもしれない。多くの不安を抱えながら、一縷の望みの光を探していたのかもしれない。多くの苦労を経験してきたであろうこの世代の大陸出身者にとって、パリの教会はオアシスとなっている。だが、それは何も高齢者だけのことではない。「内巻」に苦しめられてきている若者たちにとっても同じである。教会が一時の憩いの場となっているのである。
しかし、華人教会も特異な課題を抱えている。キリストへの信仰と中国語という共通要素が彼らを一つにしているのは確かだが、背景も人生経験も異なる者たちが一つになるのは容易なことではない。世界観や価値観の相違といったことも、いかにそれが些細な事柄であったとしても、時には大きな問題になってしまうこともあるという。この点、日本にいる華人の方たちの間でも類似したことが見られる。中国語圏という枠組みの中においても「異文化」要素が顕著にあらわれるのだ。
憩いの場としての教会だが、教会とは何か、どのようにしてその一致を保つことができるのか。いろいろと考えさせられるのもまた事実である。
遠山 潔
とおやま・きよし 1974年千葉県生まれ。中国での教会の発展と変遷に興味を持ち、約20年が経過。この間、さまざまな形で中国大陸事情についての研究に携わる。国内外で神学及び中国哲学を学び修士号を取得。現在博士課程在籍中。