【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 当たり前になった敬称 稲葉基嗣 2025年2月11日

 私は両親がクリスチャンの家庭で産まれ育ちましたが、子どものころからどうしても違和感を拭えないでいる慣習が教会の中にはあります。洗礼を受けた人に対してのみ付ける「姉」や「兄」という敬称表記と、「◯◯(名字)キョウダイ」「◯◯シマイ」と教会のメンバーがお互いに呼び合うことです。教会の外では決して使わない敬称を使ってお互いの名前を呼び合う姿は異質な文化を作り出し、私にとって大きな抵抗感を覚えるものでした。

 私たちはキリストによって結ばれた「きょうだい」であるという信仰的な確信は、教会や家庭での信仰教育や聖書を読むことを通して、成長とともに理解することはできました。けれども、そのような確信を伝えるよりむしろ、教会が二つの性別しか認めていないというメッセージにもなりかねません。また、性差やジェンダー・ロールを教会内でさらに強化してしまうことにもつながるでしょうし、洗礼の有無で教会に集う人たちを極端にカテゴリ分けし過ぎているようにも思います。そのような理由から、私はこの敬称を使わないようにしています。

 教会にとって、異質さは確かに重要かもしれません。キリストにあって私たちが結ばれているという確信は、血縁や民族的・文化的な結びつき、学閥や社会的な地位による結びつき、趣味や関心、政治的なイデオロギーや社会運動による結びつきなどを必要とはしないからです。社会的な立場や関心などを問わず、ただキリストを信じるその一点のみで結びつき、安心して集い、交わりを持つことができるという教会という信仰共同体の持つその異質さは、分断が深まるこの時代において、大きな意味を持つものだと思います。けれども、私たちが持つこの確信や信仰共同体のその異質さは、敬称によってではなく、教会の交わりの姿を通してこそ明らかになるべきだと思います。

 このような思いから、私はこれまで牧会してきた教会では、「兄」や「姉」の表記を取りやめ、敬称の表記を「さん」で統一しようと働きかけてきました。教会に集う方々の信仰理解と敬称の使用が強く結びついている可能性もあるため、慎重に準備を重ね、教会総会で提案をしたこともありました。もしかすると大きな反対を受けて、転任をしなければならなくなるのではないかという恐れも抱きつつの提案でしたが、私の思いを真剣に受け止めて一緒に考えてくださる教会であったため、牧会を続けることができました。現在、私が牧会する小山ナザレン教会では、「兄」や「姉」という敬称は使用されていません。そのため、敬称の使用に関して、教会の慣習を変えていくことに尽力する必要がないのは本当にありがたいことです。

UnsplashAksonが撮影した写真

 ところで、先日、小山教会の過去の週報と月報を確認したところ、「姉」と「兄」の敬称は2000年5月7日まで小山教会で使用されていましたが、それ以降は使用されていません。男女共同参画社会基本法が施行された翌年のことです。性別によって越えられない壁に基づいた交わりを教会の中で作らないという前任者たちの思いが伝わってきます。また、その思いを受け止め、共に教会の交わりを築いてきた教会のメンバーの決断ともいえます。小山教会が「姉」と「兄」の敬称の使用をやめてから、もうすぐ四半世紀が経とうとしていますが、今では「兄」や「姉」を使用しない交わりは当たり前のものになっています。「姉」や「兄」という敬称を用いることをやめたからといって、キリストにあって私たちは「きょうだい」であるという確信が教会の中で失われているわけでもありません。25年前、コレカラの教会のために小山教会が下した決断が、教会の現在を形作っているように感じてなりません。

 いなば・もとつぐ 1988年茨城県生まれ。日本大学、日本ナザレン神学校卒業後、数年の牧会期間を経て休職し、アジア・パシフィック・ナザレン神学院(フィリピン)とナザレン・セオロジカル・カレッジ(オーストラリア)に留学。修士号取得後、日本ナザレン教団小山教会に着任。趣味は将棋観戦とネット対局。

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