【映画評】 ファイナル・ガールを語り直す 『MaXXXine マキシーン』 2025年6月1日 

 「最高齢のシリアルキラー」を描いた前作『X エックス』の唯一の生存者マキシーンは、その後カリフォルニアのポルノ業界で名を馳せ、今は映画業界への転身を図っている。人気ホラー映画の続編の主役に抜擢され、チャンスをつかむ。しかし街にはナイト・ストーカーと呼ばれる連続殺人犯が出没。彼女の周囲にも被害が及ぶ。そのうえ前作の顛末を知る自称探偵にも付きまとわれ、マキシーンは否応なく過去と対峙することになる。

 『MaXXXine マキシーン』の舞台は80年代ハリウッド。ホラー映画がメジャー化した70年代に続いて、スラッシャー映画が量産された時代だ。本作の主な舞台はその撮影スタジオで、映像も80年代の質感。こうして劇中劇と劇中の両方で、80年代ホラーの世界が再現される。

 70年代を舞台にした前作『X エックス』は、当時の(主にホラー映画の)暴力描写を規制する目的で作られた「X指定」が実質ポルノ規制に転用されたことを逆手に取り、ポルノの撮影現場をホラー展開が乗っ取るという、メタ的逆転を描いた。本作はそれに続いて80年代をメタ的に語り直している。というのは当時のスラッシャー映画の定番だったファイナル・ガール(最後まで生き残る女性キャラクター)の暗黙的条件を、マキシーンにあえて破らせているからだ。つまり彼女は「貞淑」でなく、「(性的魅力を欠くという意味合いの)中性的」でもなく、危険をいち早く察知するほど「聡明」でもない。むしろ従来のスラッシャー映画なら一番最初の犠牲者になってもおかしくないマキシーンが、その場その場で脅威に対処し、撃退していくのだ(ファイナル・ガールの条件から逸脱したキャラクターは90年代から登場しているが、マキシーンほど大胆に逸脱したキャラクターはいなかっただろう)。

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 ファイナル・ガールの概念は、脅威に立ち向かう勇敢な(しばしば男性的な)女性像を打ち立てた一方で、女性は貞淑で慎み深く、聡明でないと罰せられるというネガティブなメッセージをも含んできた。それに正面から抗うマキシーンは、図らずも女性解放運動を体現している。80年代はポルノやセックスワークについて、(主に北米の)フェミニストの間で活発な議論がなされた時代でもある。マキシーンはまさにその渦中の存在だ。

 語り直されるのはファイナル・ガールだけではない。キリスト教会や聖職者もそうだ。80年代ホラーにおいて教会や聖職者はしばしば、殺人鬼や悪魔やモンスターといった脅威の対極に配置されてきた。善性や聖性を象徴し、脅威に対して間接的あるいは直接的に反撃し、人々を庇護する存在だったのだ。しかし本作はその構造にも疑義を呈し、教会や聖職者が必ずしも清廉潔白でないことを暴露する。

 この作品ではポルノ業界を敵視しつつ、しかし女性しか罰さない聖職者のダブルスタンダードが目に余る。当然ポルノ業界は女性だけで成立するものではない。作り手である男性と、それを視聴する男性が、女性を利用して作り上げる業界だ。その構造の中で女性だけを選択的に罰しても、何の変化も期待できない。

 では、聖職者の目的は何なのか。それは終盤に判明するが、結局のところポルノ業界のそれと大きく変わらない。女性を従わせ、服従の焼き印を押し、自分たちに都合良く利用するのだから。搾取の形態を変えるにすぎない。

 まったく関係ないように見えるマキシーンと聖職者のつながりも終盤に明らかになる。当然ながら80年代にも「宗教2世問題」はあった。それが言語化されたのは最近のことだが、本作は長く透明化されてきた2世の声をも語り直す。マキシーンとエージェントのテディが擬似的な父子関係として描かれるのは、それと地続きだ。血縁でない親子関係は時として、血縁の親子関係に勝る。本作は典型的なスラッシャー映画の体裁を取りながら、そうやってクィアに時代を語り直している。

(ライター 河島文成)

6月6日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー。

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