対談 “推し”と“神”をめぐる信仰の諸相 個人の消費を超えた「推し活」に期待 上岡磨奈×柳澤田実 2025年6月11日 

 「推し活」が世代を超えて認知されるようになって久しい。熱心なファン(オタク)が抱く愛でる対象への思いと、キリスト教徒を含む宗教者の信仰との類似性、親和性もたびたび言及されるようになった。果たしてファン活動を信仰と重ねる議論は可能なのか。「推し」と「神」の狭間について、2人の研究者に改めて考察してもらった。(対談の全文は6月20日発行の『別冊Ministry』に掲載)

■「推し」文化と宗教への関心

柳澤 私は20歳で洗礼を受けましたが、ノンクリスチャンしかいない環境で生きてきた時間が長いこともあって、自分自身が何を獲得したのか、そこでどういう変化が起きたのかということに、私的にもずっと関心を持っています。ここ10年ほどはキリスト教を含め、宗教や思想が人間のマインドセットをどう変えていくのか、思考法や価値判断にどう影響を与えているか、より実証的に研究したくなって、研究休暇期間に心理学や認知科学をベースにした宗教研究を東京大学とアメリカのニュースクール大学(New School for Social Research)で学びました。

 現代のカルチャーを受容するあり方と信仰は、必ずどこか重なり合っているという実感はありました。特に福音派やペンテコステ派の背景を持つ学生たちは、文化的なことについて、とても感度が高いと感じています。

 昨年翻訳した『リアル・メイキング いかにして「神」は現実となるのか』(慶應義塾大学出版会)の著者であるターニャ・M・ラーマンさんも、「福音派の人々が言う神の声を聞くという現象は何を意味するのか」に注目しています。そういう観点から自分が会ったことがないような存在、本や漫画の中で見たキャラクターなどが、徐々に身の回りで実際に触れ合う人々以上にリアルになっていくプロセスは、神とか目に見えない存在に対して信者がリアルに感じていく過程と非常に似ているという分析をしていて、非常に面白いなと思いました。

 卒論のテーマにしたいという学生も増えてきて、一緒にいろいろ勉強していく中でラーマンが指摘するように、福音派のあり方は相当「推し活」的だなというところにたどり着いたわけです。

上岡 私はキリスト教に親しみを持つ家庭で育ち、自分もキリスト教主義の学校に入学したのを機に受洗しました。決定的に信じたというよりは、進行形で「親しみ」を覚えていたという感覚の方が強く、自分の中のアイデンティティの一つとしてあまり大きな疑問を持たずにここまで来たというタイプのクリスチャンです。

 また大学生のころからキリスト教の信仰や、伝統宗教とエンタメが結びつくことによってどういう作用があるのかという点について考えていました。一方で、私自身が芸能の仕事をしていたこともあり、かつオタクカルチャーの渦中にいる関係で、それらが研究対象にされることへの違和感はありました。外部にいる人間と内部の人間とでは全然視点や感覚が違う気がしていたんです。

 「推し活」はそもそも新しい現象でもありません。なぜ今こんなに話題になっていて、宗教的な言説による分析が広く受け入れられているのか興味深いです。

柳澤 「自分が推している心理を言葉にしたい、読み解いてほしい」という明確なニーズがあるようです。

上岡 ファンカルチャーは宗教的なモチーフで語られがちですが、悪い意味で「宗教」と思い描かれてしまう旧来の妄信的な「オタク」像と、実際の「オタク」は少し違うと思っています。例えば私の信仰で言えば、別にとても熱心な信徒というわけではないですが、生活や人生の中に教会があり、神様が、イエス様がそばにいてくださる感覚があります。毎回ではないけれど食事の前や寝る前に祈ることは自然です。

 生活の中に信仰がどれぐらい結びついているかは人それぞれで、同じようにオタクも好きな気持ちやオタク活動があくまでも生活の一部であり、それが必ずしも熱心さを意味するわけでもない。中には1分1秒ずっと見ていないと具合が悪くなるというテンションの人もいて、その場合は確かに熱心だなと感じるかもしれませんが、そういう人だけではないというのが実感です。私の場合、友人ではないけれど友人や近しい人のような親しみを覚えている感覚かも。

柳澤 むしろそのような目の前に実在していないものへの親しみこそが非常に宗教的だとも言えるとは思います。パラソーシャル(一方通行で擬似社会的)な、つまり本当は社会的関係がないのに友人のような関係を結んでいるというのは、独特な現実感の作り方ですよね。生活と一体化した宗教でもそういうことはあり得ると思うし、ラーマンも言うように、カトリックの聖人崇拝や日本人にとっての神道もそのようなものだったはずだと思います。プロテスタンティズムが一旦否定した部分ということにはなりますが。

上岡 ファンが対象に対して崇拝するような、神聖性を抱いているケースもあると思いますが、同時に神聖視していない、良くも悪くも対等に見ている、または逆に見下すようなファンもいる。

■「推し」に眼差される感覚

柳澤 キリスト教の流れで考えると、私が最初に研究していたのは古い時代のキリスト教の神秘主義の伝統です。神秘主義は神との関係をめぐる膨大な妄想という意味でも本当に面白いですし、芸術はこうした妄想なしにはあり得ないと思います。こうした近世以前に神秘主義が担っていたイマジネーション豊かな目に見えないものとの関わりを今、エンターテインメントが担っているように見ています。つまり、伝統宗教の一部であったスピリチュアリティが、現在はエンタメの領域で展開しているということなんですが。

上岡 崇拝の対象や神格化ということを考えた時に、推しに対して祈るという行為は成立しうるのかと考えていたんですが、祈ることはないけれども、何か困った時、例えば私の場合、採血が苦手なので、そういう時はいつもアイドルの姿を思い浮かべて痛みに耐えるんですね(笑)。これは一種の祈りなのかなとも思います。

柳澤 イエス様とパーソナルな関係を結ぶというところに、神秘主義と言われる膨大な言説や芸術を生み出した伝統があるわけで、そういうものが、苦しい時に推しが自分を応援してくれているというような感覚や感情移入と深くつながっているのは間違いないです。

 学生に教えてもらったのですが、アイドルに「眼差されている」という感覚から、自身の見た目を小綺麗にしたり、善行をしたり、辛い時に思い出したりすることは十分にあり得る。伝統宗教と同じように、自分を律してくれる「神様」のようなある種の超越性を感じているわけです。単純に推しを消費していた状況から、より本格的に宗教化しているのかもしれないです。

上岡 見た目にも気を使うオタク像は新しいと言われていますね。以前は身だしなみに無頓着な人こそがオタクとされていた、しかしコンテンツを楽しむ敷居が下がったことでオシャレをたしなむ人も現場に集まってきているし、好きなアーティストに直接会える機会も増えてオタクの清潔感が重視されるようになってきました。「推し」の存在がより身近に具体的になったのかも。

柳澤 例えばイエス・キリストは、より人間的でパーソナルで、私たちが感情移入できる存在なので、関係を結んでいるような気分に簡単になれる対象ですが、三位一体の「父なる神」、この世界を造っている「善なる神」に向かって、私たちは祈りなどを通し、常にそういう偶像的な部分を超えていくように促されているのだと思います。

 ファンダムカルチャーは利己的ではなく利他的だという議論も確かにあって、「善」や「真理」などうまく別のより超越的で普遍的な価値につなげることさえできれば、個人の消費を超えた仕方で社会に良い影響を与えうるのではないかという期待もあります。

上岡磨奈
 かみおか・まな 1982年東京都生まれ。慶應義塾大学非常勤講師。専攻は文化社会学、カルチュラル・スタディーズ。主著に『アイドルについて葛藤しながら考えてみた──ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』(青弓社、2022年)、『アイドル・コード──託されるイメージを問う』(青土社、2023年)など。俳優、アイドル、作詞家などを経て、アイドルの生活や仕事、キャリアを対象とした調査、研究を行っている。

柳澤田実
 やなぎさわ・たみ 1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、関西学院大学神学部准教授。訳書に『リアル・メイキング いかにして「神」は現実となるのか』(慶應義塾大学出版会、2024年)、2017年にThe New School for Social Research の心理学研究室に留学し、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について研究している。

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