【映画評】 愛の不在にとどまる選択 『愛されなくても別に』 2025年6月27日

 大学生の宮田陽彩(ひいろ)は週に6日深夜のコンビニエンスストアで働き、早朝に帰って母親の朝食を作り、昼間はキャンパスで講義を受ける。エナジードリンクが手放せない。給料は生活費と学費に消え、友人もなく、やりたいこともない。陽彩に毎朝「愛してる」と伝える母親は、その言葉を免罪符にして彼女に寄生している。陽彩はそんな自分の人生を「クソ」と評する。しかし自分と同じように、あるいは自分以上に「毒親」に苦しめられる同級生たちと出会うことで、彼女の世界は徐々に変化していく。

 『愛されなくても別に』は武田綾乃の小説を原作とする青春群像劇。違った種類の「毒親」を持つ女性たちの遭遇と連帯、そして決別を描く。特に中心的に描かれる宮田陽彩と江永雅(みやび)の関係はシスターフッドと呼べるもので、その連帯はフェミニズムの文脈でよく語られるそれだが、本作はそういった言語化を意図的に避けている。だから彼女たちの「毒親」と呼ぶべき親たちにも、その言葉は使われない。さらに他者との身体的接触を激しく嫌悪し、恋愛に興味を示さない陽彩のセクシャリティはアセクシャル/アロマンティックと推測されるが、本作はそれも(明示的に描写しつつも)言葉にはしない。

Ⓒ武田綾乃/講談社

 それは原作の立場を踏襲したものだが、井樫彩監督の立場でもある。言語化は物事に輪郭を与え、理解を促す一方で、まだ言葉にされていない何かを消し得る。例えば陽彩の母親の行動は明らかに「毒親」のそれだが、「毒親」という言葉は彼女を単なる悪人に固定しかねない。支払い能力を越えた浪費に母親が走るのは、単に性格的な問題でなく、専門的な治療やケアが必要な状態だからかもしれない(その可能性は低くないと思われる)。しかし「毒親」という分かりやすい言葉が、それを見えにくくする。

 陽彩のセクシャリティについても、井樫監督は「本当にそれ(アセクシャル/アロマンティック)かどうかまだ分からない」と言う。誰かのセクシャリティについて、他者が一方的に決め付けることはできない。現実の人間に対してそれを行えばアウティングとなる。もちろんアセクシャル/アロマンティックを明確に自認する人物が作品に登場し、そのセクシャリティが肯定的に描かれれば、当事者はエンパワーされるだろう。そこにマイノリティを中心的に描くコンテンツのニーズの一つがある。けれど一方で、陽彩の現在の状態だけを切り取ってそのセクシャリティを決め付けるのは、彼女の今後の変化や可能性を認めないことになる。

 はっきり分からないことを分からないまま提示する――それが本作の一貫した姿勢だ。例えば、陽彩と雅の共存関係を説明する適切な言葉は見つからない。陽彩と雅は「愛されなくていい」と明言しながら、一方で互いの存在を必要としている。陽彩は木村水宝石(あくあ)を結果的に傷付けるが、そこには加害の側面と救済の側面があり、正義とも不正義とも言い難い。陽彩の不幸と雅の不幸と水宝石の不幸は、互いに癒し合う可能性を秘めつつも、衝突したり「不幸比べ」に終始したりしてしまう。

 「愛されなくていい」「このままの自分で許されたい」という本作のテーマは、これまで無数に語られてきた家族愛や友愛、恋愛といった規範に異議を申し立てるだけでなく、まさに「愛とゆるし」を標榜するキリスト教の根幹にも疑義を呈する。その疑義は劇中に登場する架空の新興宗教団体に直接ぶつけられるが、キリスト教もそれに答える義務があるだろう。聖書を開けば「神は人を愛している」というメッセージが容易に見つかり、教会に行けば「互いに愛し合う」ことが教えられる。しかしそれに慣れ、当然視するあまり、「愛とゆるし」がかえって形骸化していないだろうか。『愛されなくても別に』は愛を拒絶する一方で、逆説的に愛とは何かを私たちに問い掛ける。

(ライター 河島文成)

『愛されなくても別に』7月4日(金)全国公開/配給:カルチュア・パブリッシャーズ

Ⓒ2025 映画「愛されなくても別に」製作委員会

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