【宗教リテラシー向上委員会】 多元的世界における伝道について(4) 川島堅二 2025年7月1日

 多元的世界における伝道のあり方を、自動車の開発や販売の比喩で考えてみる。どのメーカーも市場を自社の車で席巻することを夢見て、開発に営業にしのぎを削っている。しかし他方、一つのメーカーが完全に市場を独占するような状況は現実にはあり得ないし、仮にあり得たとしてもそのような状況は自動車産業にとっても消費者にとってもベストではないことを、心のどこかでは意識しているのではないだろうか。

 政教分離が確立された今日の多元的世界での伝道も、そのようなモデルで考えてみることはできないだろうか。各宗教の指導者、布教者は、自分の宗教の救いが他に比べて優越しており、究極のものであることを主観的には信じつつ、しかし、同時に全世界の人が同じ宗教の信者になるといった状況は夢幻の類であって決して実現しないし、またそのような社会は幸福ではないと考えるべきではないか。少なくとも私はそのように考えている。

 キリスト教の絶対性が信じられていた19世紀まではキリスト教の本質を問うことは神学、特に組織神学の重要な主題であった。しかし、その際の研究方法に比較宗教学的な視点は必ずしも重視されなかった。比較宗教などは海外宣教に赴く宣教師のための実践知であって、キリスト教の本質を追求する際に必要なものとは考えられていなかったのだ。

 私が神学を学び始めたのは20世紀も後半に入ってからだが、当時の日本を代表する組織神学者がゲーテの「外国語を知らない者は自国語についても何も知らない」をもじって、「我いまだキリスト教を知らず。いわんや他宗教をや」と言っていたのを記憶している。

 しかし、先述した車の開発競争の比喩で伝道を考えるならば、状況はまったく変わってくるだろう。他社製品を徹底的に研究して、その優れた点も欠点も学び尽くして自社の車を開発するように、宗教者もまた他宗教を真剣に研究し、時には他宗教の実践に参与して学びつつ自己の宗教についての認識を深めることになるからである。

 キリスト教は、仏教、イスラムとともに三大世界宗教であるといわれる。民族、国境、文化の壁を越えて信者を獲得してきたからだ。それは事実であるとしても、その世界宗教性が普遍性と読み替えられ、さらに一部キリスト教やイスラムにおいて排他的な唯一性と解釈されてきたところに問題があった。今日、世界宗教に求められているのは、排他性や唯一性の放棄はもとより、時には普遍性をも制限する(自分の宗教によってではなく他の宗教によって救われる人もいることを認める)多元的宗教性である。

 世界遺産にも登録されている京都の東寺、南大門の脇に八島社殿という小さな神社がある。東寺の公式サイトには、その所在さえ記されていない場所だ。初めて東寺を訪れた時、その社殿の前に立てられた説明文を読んで深い感銘を受けた。そこには次のように記されている。

 「祭神は東寺の地主神とも、大己貴神とも言われる。(中略)この社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる」

 同じころイタリアのアッシジに、古代ミネルヴァ神殿跡に建立されたサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(ミネルヴァ神を克服したマリアの教会)を訪ねた印象があったので、それとの比較で感銘を受けたのである。

 今日の多元的世界において改めて求められているのも他宗教を排除・克服するのではなく、共存を前提とする伝道である。(おわり)

川島堅二(東北学院大学教授)
 かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。

【宗教リテラシー向上委員会】 多元的世界における伝道について(3) 川島堅二 2025年5月11日

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