【Web連載】ボンヘッファーの生涯(3) カトリックとの遭遇 福島慎太郎 2025年7月4日

 若いころに出会う人々はその後の人生に大きな影響を与える。

 学生時代、ほとんど進んでいなかった修士論文を気にかけ、担当教授が連絡をくださった。しかし、自分の進まない執筆にイライラした私は「心配しなくていいです」と、ぶきっらぼうに返してしまった。するとその先生は微笑みながら、「いえ、心配するのが私の仕事です」と滑らかにお答えくださった。

 牧師も務めているその方の姿から「教育者の心構え」を学び、今もあの瞬間のやり取りが忘れられない。先生、すみませんでした。

 ドイツの大学事情は日本と少し異なる。当時も今も、ドイツで進学する場合は「アビトゥーア」という大学入学への資格試験をパスする必要がある。これに合格した学生は、点数によって規定されている範囲内で自由に大学を選択でき、また編入学をしてもよいこととなっている。

 そのためボンヘッファーも初年度の1923年はデュービンゲン大学に在籍していたが、1924年6月からはベルリン大学へ籍を移し、最終的にそこで博士号を取得している。

 1年と少しばかりの時間であったテュービンゲン時代、彼が学問的に影響を受けたのはアドルフ・シュラッターという新約学の専門家であった。弟子のベートゲによれば、ボンヘッファーはルターと並んでシュラッターの書物をほぼすべて所有していたという。

 ただし彼の講義を受けたのは1セメスターだけであり、個人的な交流にまでは発展しなかった。この時、ボンヘッファーが最も影響を受けたのは旅で訪れたローマ世界とカトリック教会だった。

 1924年4月から6月の間、18歳の青年ボンヘッファーはローマを中心に地中海沿岸を旅行した。この旅はのちに日記帳も残されており、それ以外に日記をつける習慣がなかった彼にとってこの地がどれほど人生と信仰に大きな影響を与えたのだろうと思う。

 ボンヘッファーを魅了したのはカトリック教会のもつ「普遍性(すべてのものに共通する性質)」であった。「カトリック」という言葉自体、ギリシャ語で「普遍性」を意味する「カトリコス」に由来するが、総じて彼は日常生活と宗教活動が分離されていないローマの光景にとても感動したのであった。

 少し世界史を振り返りたい。マルティン・ルターから始まったドイツのプロテスタント教会では、時代を重ねるごとに政治との距離も近くなっていた。その顕著な例は「領邦教会」という制度。これはひと言で言うと「土地の君主が自領内の教会の管理権をもつ」というもので、1555年のアウグスブルク宗教和議から第一次世界大戦のころまで継続した。

本論と無関係だが、母とローマへ行った際に美味しかったイタリアン。

 「キリスト教国家って感じでいいじゃん!」と思う人もいるかもしれない。しかし領主が必ずしも神学教育を受けていたり、信仰的に熱心だというわけでもなかった。どちらかといえば、その色は近代に近づくにつれ徐々に薄まっていっただろう。また領主の最大の仕事は「土地を守る」ことであり、「教会の機能」や「キリスト教的な教え」といったものも次第に政治的な働きへ色濃く融合されていくこととなった。

 そのような教会の姿を前に、ボンヘッファーはたびたびドイツの教会を批判していた。このころの手紙では「教会」ではなく「プロテスタンティズム」と区別していたし、「領邦教会になっていなかったら事態はもっと違っていただろう」と歴史を悔やむような発言も残している。

 そんな中で彼はカトリック教会と出会い、衝撃を受けた。そこで記された日記は素朴な感情にあふれており、夕礼拝の中で歌われる(カトリックの用語では「奉唱される」)修道女見習いたちの歌声に「素朴さと優美さ」を覚え、満員の告解席と祈る人々に感動し、宗教生活が思想や政治のためだけでなく日々営まれる「日常」であることを目の当たりにした。

 これについてはボンヘッファー自身、ある種の偏りや思い入れも認めているが、同時に「教会とは何ものなのか」という「存在」を考えるきっかけに出会えたのも事実であった。

 つまり「国家」や「領邦」ではなく「普遍性」というフレームによって、また「政治的」や「宗教的」というより「社会」や「日常生活」といった空間において、今日の教会がどのような意味をもって存在しているかという神学的課題の発見だ。

 実はボンヘッファーはとにかく「宗教的」というフレーズを毛嫌いしていた。晩年に獄中で記された手紙の中でもこのように語っている。

「宗教的行為」は、必ず部分的なものである。「信仰」は全体的なものであり、全生活にわたる行為なのだ。

 このフレーズ自体を噛み砕くことも面白いと思うが、紙幅の都合で割愛する(ここまでちょっと長いよね?)。ただこの着想に至るまで、ボンヘッファーが見たローマでの光景は大きく影響しているだろう。

 劇的な出会いは、その後の彼の神学と信仰における土台部分を形成した。ボンヘッファーの博士論文『聖徒の交わり』は「教会として存在するキリスト」という教会論がテーマであったし、旅行から数年後「われわれは、普遍性と唯一の救済機関たる教会の原則を(中略)カトリック教会がどのように結合させているかということを見て驚嘆するのである。カトリック教会は、それ自体一つの世界である」と友人宛に書き送っている。

 さて、少し詳細にボンヘッファーの体験を記したが、それには二つの理由がある。ここに彼の信仰の真髄とも呼べる視座が顔を見せている。

 一つは「教会」である。よくボンヘッファーは「神学者」と表現されるが、その専門分野は「教会論」であろう。

 例えば、彼が獄中で残した手紙にある「教会は、他者のために存在する時にのみ、教会である」というフレーズは教派を超え、今日まで私たちのアイデンティティを考える上で重要な役割を担っている。反対に同じ手紙の中でも「一般に告白教会では、教会固有の『事柄』などについては介入するが、人格的なキリスト信仰というものはおよそ見られない」と、のちに反ナチスを共通軸として結成され、ボンヘッファーも参加していた告白教会については非難の声を挙げている。

 彼にとっての最大の関心は、今日の「世界(あるいは「世俗」)」と「教会」との関係性をどう捉えればよいのか、そして今日の「世界」にとって「教会」とはどのような存在であるのか、というものであった。彼亡き今、その問いは今日の教会とキリスト者に委ねられているのだろう。

 もう一つは「経験」である。一般的に「学者」といえば机の上で書物を読んだり、論文を執筆する中で新しい発見をすると思われがちだ。しかしボンヘッファーについて、確かに豊富な知識はあるものの、その土台となるのは常に「経験」であった。

 この後、彼が「世界」と「教会」の関係性についてもう一度熱中するのは1930年のアメリカ留学中のこと。そこで出会った「ゴスペル音楽」や「黒人教会」といった存在が彼の教会理解をより深く、鮮やかにした。「経験が神学者をつくる」とマルティン・ルターは言ったが、ボンヘッファーとはまさにそのような人物であった。

 彼の神学者としての一歩目は衝撃的な出会いから始まった。そしてローマから帰国後、ベルリン大学へ編入すると同時にいよいよ本格的な「教会」研究の旅路へ歩み出すこととなった。

【参考文献】

・ディートリヒ・ボンヘッファー、倉松功・森平太訳『抵抗と信従』(新教出版社、1972年)
・エバーハルト・ベートゲ、村上伸訳『ボンヘッファー伝Ⅰ』(新教出版社、1973年)
・同上、日本ボンヘッファー研究会訳『ボンヘッファーの世界─その本質と展開』(新教出版社、1981年)
・森平太『服従と抵抗への道─ボンヘッファーの生涯』(新教出版社、1969年)
・エルンスト・ファイル、日本ボンヘッファー研究会訳『ボンヘッファーの神学─解釈学・キリスト論・この世理解』(新教出版社、2001年)
・八谷俊久「『他者のための教会』の教会論を巡って─ボンヘッファーにおける世界教会運動(エキュメニズム)の諸断面:森平太(森岡巌)著『服従と抵抗への道』を手掛かりとして」(日本ボンヘッファー研究会『ボンヘッファー研究』第37号、2021年)15−21頁
・栗林輝夫『現代神学の最前線─「バルト以後」の半世紀を読む』(新教出版社、2007年)
・木村靖二他編『ドイツ史研究入門』(山川出版社、2014年)

福島慎太郎
 ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝の運営、幼稚園でのチャプレンなどを務める。連載「14歳からのボンヘッファー」「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。

【Web連載】ボンヘッファーの生涯(2) 青年期の召命 福島慎太郎 2025年6月20日

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