俳句想礼拝の試み 玉木愛子の句を式文に 2025年7月11日

 俳句を礼拝に用いて黙想する新しい礼拝として2014年に始めた俳句想礼拝が、北海道北見市のピアソン記念館の前庭で6月14日に行われた。4回目となるこの礼拝は、これまで日本聖公会の夕礼拝の形式で東京のカフェ・エクレシア(2023年2月閉店)が主催。その後、俳句想礼拝研究・準備会が発足され、2年6カ月の準備期間を経て今回の開催に至った。

 今回は、ハンセン病と闘いながら信仰生活の中で優れた俳句を作り、生涯を終えた玉木愛子をとりあげた。司式は日本基督教団北見望ケ丘教会の李相勁(イ・サンギョン)、奏楽は同教会員の玉川貴子氏、説教は日本聖公会北海道教区の飯野正行氏が担当した(「言語を超える語り」ルカによる福音書10章25~37節)。

 詩人でもある飯野氏は当日の説教を通して、自身が心震えた玉木愛子の句を挙げつつ、「詩的な黙想、み言葉の黙想を通して、言葉を超える『意味そのもの』に心震える者でありたい。そんな生活の中で私たちは、イエス様からの、言葉にできない悲しいくらいの愛に癒やされ、豊かな礼拝をささげ、手を取り合い、喜びを分かち合うようになると思う」と結んだ。

 式文には玉木愛子の句と選句の言葉を採用。出席者は共に俳句を味わい彼女の信仰生活に思いを寄せた。

 礼拝後、中西光雄氏(日本基督教団代田教会長老、古典講師)は、「玉木愛子さんの作品の文学的価値」(当日欠席のため原稿代読)と題する講演で、俳句は庶民のものであり季語を核に生活を詠む詩だと定義。玉木愛子も伝統的な形式をとるが、時に冷静でいられない心と痛みにあえぐ肉体をかかえ、キリストに全身全霊で帰依していく様が冷静に表現されており、その精神の動きに感動をおぼえるのだと述べた。また、松尾芭蕉の教え「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」 にある「光」は、文学的技術論を超えた、キリスト教信仰に近い概念ではないかと指摘。玉木愛子の俳句は、この「光」を感じ取り、表現しているところに普遍的な価値があると締めくくった。

 続いて俳句想礼拝の提唱者である李民洙(リ・ミンス)氏(日本聖公会司祭早期退職、現「里山オイコス」代表)は「俳句想礼拝の神学的意味:感性で読む聖書」と題して、俳句想礼拝の背景を解説した。日本のキリスト教の土着化を模索してきた過程で、俳句から余韻が聞こえるようになった体験に着目。俳句とは文字の裏にあるものが発する響きを感じ取るものであり、日本の文化は「響きの文化」であると理解するに至る。聖書を文字として読み、理性的に理解するだけでなく、自然や音などの世界から感じ取る感受性を通せば、もっと豊かな信仰の世界を表現できる。俳句にはその可能性があるとし、日本の文化・日本人の心に伝わる礼拝として俳句を用いた礼拝を「俳句想礼拝」と命名。今後もできることをやり続けていこうと呼びかけた。

 俳句想礼拝研究・準備会は今後、月例オンラインミーテイングを通して第5回の準備に入る。誰でも参加可能。問い合わせは李民洙氏(minsrhee@yahoo.co.jp)まで。

(報告=高野啓子 俳句想礼拝研究・準備会)

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