【この世界の片隅から】 植民地期台湾での〈君が代〉――賛美歌集に忍び込んだ天皇の影 鄭 睦群 2025年7月11日

 1926年に編纂された台湾基督長老教会(以下、長老教会)の賛美歌集『聖詩』を開いてみると、第192番が、旋律・歌詞ともにキリスト教信仰とはまったく関係がないことに気づくだろう。この歌こそが、いまや広く知られる日本の国歌〈君が代〉である。神を讃える賛美歌集において、「現人神」である天皇への敬意を歌い上げるという、奇妙な現象である。

 1895年、台湾は下関条約により日本に割譲された。しかし実のところ、日本国内でもこの台湾割譲には多くの異なる意見があった。軍事と行政に多額の費用を投じたにもかかわらず、期待されたメリットが得られていないとして、「まるで底なしの金食い虫だ」との声も上がっていた。さらには、「台湾は1億円でフランスに売却すべきだ」とする「台湾売却論」さえ登場した。最終的には、台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平のコンビにより情勢が安定し、太平洋戦争が勃発するまでの間、長老教会と統治当局との政教関係はおおむね友好な状態が保たれていた。

 当時、日本政府は、欧米キリスト教の薫陶を受けた台湾人を「良民」とみなし、南部と北部の長老教会の関係も次第に密接になっていった。長老教会が清代に台湾で宣教を始めた頃に用いていた賛美歌は、ロバート・モリソン(Robert Morrison,、1782〜1832年、最初の来華プロテスタント宣教師)によって初めて編纂されたものであり、1871年に増補改訂されて発行された『養心神詩』(全59首)は、歌詞のみで譜面はなかった。

 1912年10月24日、南部・北部教会は彰化西門街教会で「台湾大会」の設立礼拝を執り行い、ウィリアム・キャンベル(William Campbell、1841〜1921年、スコットランド出身の宣教師)が大会議長に選出された。1919年4月、第8回台湾大会が台南神学校(現・台南神学院)にて開催され、「台湾にふさわしい賛美歌集を編纂する」との決議がなされる。1923年には、全台湾の長老教会で共通に使用できる漢字版『聖詩』が発行され、1926年には五線譜付きのローマ字表記版へと改訂された。

『聖詩』(1926年)第192番に収録されていた〈君が代〉

 しかし、この1926年版『聖詩』は、1923年版よりも4曲多くの歌を収録していただけでなく、「政治的配慮」も含まれていた。1923年版『聖詩』は、廈門で出版された『聖詩』の影響を受けており、「中国」の色彩が濃かった。例えば、ある歌詞には「恵みを与え、中国を守りたまえ」「主の言葉が中国のすみずみにまで広がりますように」といった表現が見られる。日本帝国の統治下にある台湾において、「中国への神の恩寵」を歌うことは、当然ながら植民地当局の注意を引いた。

 こうした中、当局からの「問い合わせ」や「関心」のもと、1926年版『聖詩』では該当歌詞が修正された。例えば、「恵みを与え、中国を守りたまえ」は「恵みを与え、全国を守りたまえ」に、「主の言葉が中国のすみずみにまで届きますように」は「主の言葉が本国のすみずみにまで広がりますように」と改められた。おそらくは、今後再び「関心」を寄せられないようにとの配慮からであろう。こうして、1926年版『聖詩』の最後(第192番)に、突如として日本の国歌〈君が代〉が登場することとなった。それはまさに「現人神」である天皇が、長老教会の賛美歌集に忍び込んだ象徴的な事例である。

 とはいえ、〈君が代〉が『聖詩』に編入された時点では、長老教会と総督府との関係が目立って悪化していたわけではなかった。その後、長老教会は礼拝や集会の冒頭で〈君が代〉を斉唱することを強いられることになるが、それはあくまで太平洋戦争勃発後の出来事である。

 1945年、日本は台湾統治の50年に終止符を打つ。そして1964年、長老教会は新たな『聖詩』を出版したが、そこには天皇の影はすでに見当たらくなっていた……。

(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)

 てい・ぼくぐん 1981年台湾台北市生まれ。台湾中国文化大学史学研究所で博士号取得。専門分野は、台湾史、台湾キリスト教史。現在、八角塔男声合唱団責任者、淡江大学歴史学部と輔仁大学医学部助教、台湾基督長老教会・聖望教会長老、李登輝基金会執行役員、台湾教授協会秘書長。

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