【宗教リテラシー向上委員会】 紙幣デザインからみるアラブ・イスラーム世界 牟禮拓朗 2025年7月21日

 コロナ・パンデミックが世界を覆い始めていた2020年5月、チュニジアに滞在していた私の手元に、当時発行されたばかりのチュニジアの新紙幣が巡ってきた。淡い青色をしたその10ディナール紙幣には、女性の肖像が描かれていた。調べてみると、タウヒーダ・ベン・シェイク氏(1909~2010年)という、チュニジア初の女性医師だった。1928年にチュニジア人女性として初めて大学の学位を取得し、1936年に北アフリカ出身のムスリム女性として初めて医学の学位を取得したという。そしてその紙幣は、「アラブで唯一、近代の女性が描かれた紙幣」としても注目されていた。

 チュニジアはアフリカ最北端に位置するアラブの国で、イスラーム教徒が国民の98%を占める。そもそも、偶像崇拝を禁ずるというイスラームの教えから、アラブ諸国では紙幣に人物画を用いないケースが多いといわれる。実際、カタールやクウェート、エジプトなどの紙幣には人物画はなく、国章や国旗、宗教的モチーフ、建築物などが描かれている。特にエジプトの各紙幣の表面には国内のさまざまなモスクが描かれており、イスラームの趣がより感じられる。

 しかし実は、紙幣における人物画というのは、イスラームの規範によって厳しく規制されているというわけではない。聖地マッカ(メッカ)を擁するサウジアラビアでは、最高額紙幣にサウード初代国王、他の紙幣にサルマーン現国王の肖像が描かれている(国王が崩御するたびに紙幣デザインが刷新される)。ヨルダンやモロッコなど他の君主制国家でも国王の肖像が描かれている。シーア派の大国イランでは、イラン・イスラーム革命を主導し初代最高指導者となったホメイニー師がすべての紙幣に描かれている。

 また、独裁的な政権が、自身の権威を誇示するために用いるケースもしばしば見られる。イラク戦争による失脚までフセイン前大統領が描かれていたイラクや、昨年まで親子2代にわたって独裁体制を築いたアサド父子が描かれたシリアなどがその典型である。

 このようにアラブにおける紙幣デザインは、宗教的モチーフがしばしば用いられるものの、偶像崇拝の禁止という規範についてはそれほど強くなく、国の指導者や建国の父などが描かれる場合が多い。

 さて、こうしたアラブの紙幣事情を鑑みると、国の指導者や建国の父でもない、近代に活躍した女性医師の肖像がデザインされたチュニジア紙幣の特異性が改めて浮かび上がる。女性に対し抑圧的であるというイメージをアラブ・イスラームに抱いている人も少なくないだろう。しかしチュニジアは、独立直後から国家主導で推進された女性の権利保護政策の影響もあり、女性の政治・社会進出については比較的に進んでいる。チュニジアでは医師や弁護士の40%以上、議員の30%(2014年時)が女性である。なお、現在の日本の女性医師は23%、弁護士は20%、衆議院における女性議員数は10%であり、この3職種に限ればすべてでチュニジアの約半分の割合にとどまる。チュニジアの新紙幣に女性医師の肖像が用いられた背景には、女性の社会進出に尽力してきたという独自の歴史が深く関わっている。

 以上で見てきたように、一枚岩に見られがちな「アラブ」の中でも国ごとに異なる多様な価値観が紙幣デザインに投影されている。それは宗教的規範であったり、国家を体現する王や指導者であったり、社会で活躍する女性であったり、きわめて多岐にわたる。

 アラブに限らずだが、海外の紙幣や貨幣に触れる機会がある際は、ぜひそのデザインの意味や変遷を調べてみると、その国の歴史や文化のより深い理解につながるかもしれない。

牟禮拓朗(宗教情報リサーチセンター研究員)
 むれ・たくろう 1991年大阪府生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。共著書に「民主主義と権威主義の相克」(福富満久編著『新・国際平和論』ミネルヴァ書房、2023年)、論文に「新興民主主義国家でイスラーム主義政党はいかなる役割を果たしたか」(『現代宗教』2025年)ほか。

連載一覧ページへ

連載の最新記事一覧

  • HungerZero logo

    HungerZero logo
  • 聖コレクション リアル神ゲーあります。「聖書で、遊ぼう。」聖書コレクション
  • 求人/募集/招聘