【宗教リテラシー向上委員会】 夫婦別姓と日本のお墓 牛窪彩絢 2025年9月11日

昨今、何かと議論を呼ぶ「選択的夫婦別姓」。これが〝日本のお墓の文化を変えてしまう〟という言説が、ネット上や一部メディアで見られる。要は、現在私たちになじみのある「〇〇家之墓」は夫婦別姓の場合どうなるのかという疑問に端を発している。姓が違うのにその墓に入れるのだろうか? 墓碑を両姓に書き換えるべきか? 仮に夫婦別姓が2代、3代と続けば両家墓どころか三家墓、四家墓が乱立する事にならないか? こうした疑問から、ひいては「家/先祖代々の墓を守る」という意識が薄れ、墓じまいや合同墓・個人墓を選択する人が増えるだろうとの主張につながっている。
これについて、葬儀や墓を研究してきた身としてはいくつかの雑感が浮かぶ。ここでは「宗教リテラシー」の向上に若干でも貢献できたらという思いで、この雑感について記したい。なお、本稿は選択的夫婦別姓の賛否に立ち入ろうとするものではないことを注記しておきたい。「雑感」としたのはそのためである。
まず、上述の言説に賛同できる部分は、お墓の文化が変わるだろうとの見立てについてだ。「〇〇家」と書かれた墓標を有する墓を異姓の者が継承していく場合に、当然そこに生じる違和感を解消しようとする営みが出てくると思われる。墓碑の書き換えは当然として、墓碑のデザインをまったく別物に変える動きが出るかもしれない(今でも家名ではなく「和」などと刻む墓碑も見られるが)。そして誰の墓かを示すための墓誌の設置が促され、そこには「鈴木〇男の妻・山田〇子」等と書くことが常態化するのかもしれない。いずれにせよ、社会のあり方が変われば墓は変化する。「墓地とは社会を映し出す鏡である」と言われる所以である(ちなみに、別姓の人や友人などに墓を継がせることは、上述の〝墓への刻字の併記〟と併せて法的に問題はない)。
三家墓などが乱立する事態にはなるだろうか? そういう形態も出てくるかもしれないが、それよりは上述のように墓碑のデザインを変える方がサステナブルと考える人の方が多勢だと思われる。同様に、サステナブル性を考えたときに個人墓を選択する層がそれほど多いとも思えない。
〝先祖祭祀の意識が薄れる〟という言説についてはどうだろうか。これについて筆者は、「婦人の氏族」(『会通雑誌』90号、明治21年)という論説を引き合いに繰り広げられたSNS上の談論に接した。この論説は、近代国家を目指す日本が西洋の婚姻観を参照して夫婦同姓の導入について論戦していた時代のさ中に書かれたもので、原文を確かめたところ、〝「西村ナカ子之墓」と書かれた墓標からはナカ子の婚前の出自がわからず、これでは先祖を祭祀することもできない〟という主旨が述べられている。
要は、夫婦別姓推進者も〝先祖祭祀の意識が薄れる〟という理由で同姓墓を批判していたのだとSNS上で皮肉られていたわけである。ここに筆者が補足すべきことがあるとすれば墓制史についてだろうか。庶民の造墓は元々禁じられており、近世初期に見られるようになった庶民の墓は個人墓が主で、「先祖代々之墓」が広まるのは明治31年の民法公布以降である。正にこの論説にも時流が表れているが、代々の墓の歴史はそう古くないのである。
〝墓じまいや合同墓を選択する人が増える〟というのも、半分納得、半分疑問だ。これは夫婦別姓以前に今でも見られる潮流であり、最たる要因は墓を継ぐ人が居ない単身世帯の増加だろう。樹木葬や散骨、友人同士や介護施設で墓を設ける例の増加も同様の要因が指摘される。ここで再び想起されるのが「墓地とは社会を映し出す鏡」という言葉だ。墓とは時代と共に変わるものであり、墓の歴史もそれを物語っている。夫婦別姓で変わるお墓の文化を嘆くべからずなのである。
牛窪彩絢(宗教情報リサーチセンター研究員)
うしくぼ・さあや 1990年千葉県生まれ、神奈川県育ち。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍中。日本学術振興会特別研究員(DC2)。論文に「『墓埋法』をめぐる法と民俗――沖縄への適用のプロセスを通して」(『東京大学宗教学年報』)、「琉球における『殯』の基礎的考察」(『東洋文化研究』)など。
Unsplashのshingo matsuiが撮影した写真