【寄稿】 教会と家父長制――宗教2世の苦しみ イエスが忌み嫌った暴力性・威圧性 井上有子 2025年9月11日

 旧統一協会への解散命令を機に、改めて注目される「宗教2世」問題。伝統的なプロテスタント教会も多くの2世を抱えているにもかかわらず、「対岸の火事」として傍観してはいないか。この間、日本キリスト改革派神学研修所で家父長制の構造に根ざした暴力や抑圧の現実と向き合い、聖書本来の視点に立ち返る必要性を訴えてきた井上有子氏(長野まきば教会会員)に寄稿してもらった。

 安倍晋三元首相が凶弾に倒れて3年。私は氏の政治信条にまったく賛同していなかった。しかし民主主義を掲げる日本において首相が凶弾に倒れたこと、また加害者が犯行に至った背景に統一協会による経済的搾取があったことを知り、衝撃を受けた。

 しかし、さらなる懸念はプロテスタント教会の「高みの見物」である。加害者がカルトと称される統一協会の宗教2世だったことに免責の根拠を見出し、プロテスタント教会は「対岸の火事」と決め込んだようだ。しかし傍観すべきではない。大いなる危機感を抱くべきである。プロテスタント教会もまた、苦悩する宗教2世を多く生んでいるからだ。宗教2世の苦しみを家父長制の観点から考えてみたい。

 私は宗教改革の流れをくむ改革派教会の信徒だ。宗教2世でもある。イエス・キリストは家父長制、特に家父長制が内包する暴力性・威圧性を忌み嫌った。意図的に権力を退け、社会の周縁で沈黙を強いられる多くの女性を癒やし、慈しみに満ちたまなざしを子どもたちに向けた。

 「創世記」も家父長制を否定している。対話性・関係性・交わりに基づくパートナーシップが互いへの信頼と尊敬を生むと教えている。そして、堕落により「男性は支配、女性と子どもは服従」とする家父長制が始まったと聖書は理解している。それゆえ聖書は家父長的リーダーのもと、子どもや女性の苦しみが必要悪として簡単にあしらわれる悲劇を容赦なく描く。時に目を覆いたくなるほどの子ども・女性に対する暴力を聖書が赤裸々に描くのは、犠牲者と共に神があることを示すためである。

 この家父長制が宗教2世を苦しめている一因だ。宗教2世だけではない。女性も性的マイノリティも、そして男性も家父長制の被害者だ。教会こそが、聖書の教えにのっとって、家父長制からの脱却を主張すべきである。

 しかし、プロスタント教会は家父長制にどっかりとあぐらをかいてきた。宗教改革の立役者であるジャン・カルヴァンが、家父長制になんら疑問を抱いていなかったことは明白である。彼は 1542年に著した『ジュネーブ教会信仰問答』において、子は両親に従属・服従しなくてはならないと述べ、素直に従わない子どもは罰せられると書いている。キリストは女性に自由・自立・自己尊厳を求めているという聖書の教えは、家父長制という「土」に埋もれ、隠されている。だからこそカルヴァンは家庭・教会における女性の役割は「男性への服従・補佐」だと臆面もなく解説し、キリストがいかに家父長制を忌避しているかに関する考察はいっさいうかがえない。

 しかし問題は、家父長制に対するカルヴァンのあまりにも鈍感な感覚に対する批判が、プロテスタント教会内からいまだ提示されないことである(カルヴァンの教えは制度的には家父長制を維持してきたが、神学的には超克の萌芽があると考えるフェミニスト神学者はいる)。16世紀の神学者に家父長制を批判的に捉える視点を求めても、どだい無理である。しかし家父長制のもと、暴力をいとわぬ親にさえ従うことが子に求められ、妻や母が「家政婦」として沈黙を強いられることを肯定するカルヴァンへの批判が、いまだ教会内から出ないのはなぜなのだろう。子どもも女性も抗わず、従順に従うことを男性聖職者が求めているからだろうか。批判・疑問に耳を傾けず、抗う者を危険視し、その上で共同体の統一を図る教会は、では、カルトとはどう区別されるのか。

 家父長制に対する教会の鈍感さはハラスメント対策の遅れにも如実に表れている。ハラスメント対策整備、また男女賃金格差の開示義務など、フェミニズムの可視化が進む日本社会において、教会は取り残されたままだ。教会でハラスメント対策が整備されなければ、教会の公的信頼性そのものが脅かされる危険性があるだろう。

 日本社会はもはや教会を「聖域」とは考えていない。むしろ聖職者・教会の中心メンバーによるハラスメントほど隠蔽され、根深いとの認識が広まりつつある。統一協会のようなカルトのみならず、カトリック、仏教界における性暴力・虐待の報道も増加傾向にある。プロテスタント教会における告発も増えていくだろう。教会が無策であり続ければ、「教会でこそハラスメントは取り締まれない」という社会的不信が広がり、信頼性を失う。

 日本はキリスト教国ではない。それゆえ信仰を維持・継承していくのは至難の業だ。だからだろうか、信仰を受け継ぐことに失敗し、教会を去る宗教2世への教会の視線は冷ややかだ。親の教育が悪いだの、聖書理解が浅いだのと言って宗教2世を簡単に切り捨てる。しかし、本当にそうだろうか。家父長制を肯定し続ける教会と、イエス・キリストの教えの間に乖離があると誰よりも鋭く見抜き、教会に満ちる暴力・抑圧・搾取にもはや耐えられないからこそ去るのだろう。

 聖書には孤独と分断、憎しみの連鎖に苦しむ日本人を解放する真理が確かにある。しかし問題は家父長制を肯定し、弱者の苦しみを必要悪としてあしらうような教会に、真理が伝えられるか否かである。

 聖書の神は常に周縁にある者、沈黙を強いられる者と共に立っている。キリストは今日も生 き、行動しておられるのだ。教会を離れざるを得なかった宗教2世と共に。ガザで瓦礫の下敷きになった子どもたちと共に。男性中心の権力のもと、服従を強いられる女性たちと共に。教会はいまこそ、支配する側の論理(家父長制)ではなく、キリストの「小さき者に寄り添う視点」で日本社会、教会、世界を捉える基本に戻らなくてはならない。

 そうでなければいよいよ「キリストは意図的に教会を離れ、日本社会で弱者のために働く人々と共にある」可能性について、真剣に考えなくてはならない事態に陥るだろう。宗教2世の苦悩の前で膝を折り、頭を垂れ、その苦悩から学ぶ謙虚な姿勢が、プロテスタント教会に求められているのではないだろうか。そのへりくだりにこそ、日本社会に訴え得る教会としての回復の希望があると信じるものである。

 いのうえ・ゆうこ 通訳者・翻訳者。改革派神学研修所非常勤講師(フェミニスト神学)。国際基督教大学大学院博士前期課程修了(英文学)。訳書に『聖書が教える結婚と性』(いのちのことば社、2023年)。

Image by Orna from Pixabay

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