【Web連載】ボンヘッファーの生涯(6) 聖徒の交わり 福島慎太郎 2025年9月26日

あなたにとって教会とは?
キリスト者の方がお読みであれば、あなたにとって「教会」とはどのような場所だろうか? 生まれてからずっといる人、人生の途中から集うようになった人。それぞれで見え方も異なるだろう。
僕が初めて教会に行ったのは18歳のころ、10〜15人ほどの「家」のような空間でまさに「家族」として受け入れてもらった。今でも思い出すのは僕がお腹を空かしてはいけないと集会におにぎりを持参し、時間があれば家に招いてくださったご夫婦の姿。あの時に受けた愛が、僕の牧会者像を作り出したといっても過言ではない。
ユースパスターを務めている教会ではとにかくご飯を食べて、賛美して、遊ぶといった集会を定期的に開催している。時折そこに集う学生たちが「教会って家みたいな場所だね」と声をかけてくれるが、その時いつも「僕の原風景が今も生き続けているのだな」と実感する。
『聖徒の交わり』
今回取り扱うのは『聖徒の交わり』というボンヘッファーが1927年、21歳の時に記した博士論文を3年後にかなりの削除と要約を重ねたかたちで出版した作品である。ここでは「啓示」をどう理解するかという点から「教会」の意味と存在意義を探っている。と、難しいことを話したが今日は基本の〝キ〟となるボンヘッファーの教会理解について見てみたい。
本書におけるボンヘッファーの教会理解を探るためには、まず「罪」理解が重要な鍵となる。というのも罪について彼は「人間の原状態的関係(*堕落前)は互いに与える関係であったのに、罪の状態(*堕落後)においては純粋に要求の関係」になってしまったと定義する。つまり今日僕たちの目の前に広がる「(神、人、ものとの)関係性」は、いびつな形をしているというのだ。
ここで特徴的なのは「罪」の「範囲」である。例えば僕たちが悔い改めを祈る時、ほとんどが自分の犯してしまった過ちに注目すると思う。しかしボンヘッファーは上記で「関係」という言葉を繰り返すように、その亀裂を人間関係や社会の中での出来事としても捉えるよう訴える。
具体例として彼は旧約聖書に登場する預言者イザヤを挙げてこのように語っている。
イザヤは、最も深い孤独の中で聖なる神と相対した時、「わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者である」と叫んだ。彼は、それによって自分の罪を棚にあ
げているのではなく、むしろ、その罪と共に、彼において民族全体の罪が成長し、彼の罪が民族全体の罪と極めて密接な関係にあるという意識が生じているのである。
つまり罪とは個人のもの、あるいは誰かのもの、といった概念ではなく「個々人と人類」の両者が陥っている状態であり区別はできないというのだ。そして先ほど言った通り、ボンヘッファーにとって罪の世界とは「要求の関係」であり、そこでは自己実現や自己追求がゴールとなる。
「他者」が「愛する」ためではなく、「自分が何かを達成する」ために存在しているとすればどうなるだろう? 次第に自分以外の存在は目的のための「道具」や「手段」となり、神と人間、または人間同士の間に亀裂が生じる。ここでボンヘッファーは最終的に、「私(個人)」は一つの「孤独」を生きる存在として今日も周縁に追いやられているというのだ。
「あなた」を一人にしない
しかし、人間を孤独にしない――関係性の回復のために、神は動き出す。それが「教会」である。ボンヘッファーは教会の原風景についてこのように語っている。
(最後の晩餐において)イエスは、「私がこのパンを裂くように、明日私の体は裂かれ、あなたがたすべてが一つのパンを食べあきるようにして、あなたがたすべては私にあってのみ救われ、結び合わされるのだ」と言われた。教会の主は、彼の弟子たちに彼との交わりを贈与し、それによって彼ら相互の交わりを贈与する。ここに教会の設立場面を見る。
ここでは「キリスト」という「一つのパン」を「共に食する群れ」こそが教会であると語られている。それは弟子たちに神と、人々との交わりを与えるという「関係性の回復」に他ならない。そしてその中で僕たちは「聖徒の交わり」として互いに罪を赦され、重荷を担い、神とその方の意志を世界中に伝えていくのだとボンヘッファーは考えていた。
また教会の原風景が「私の体は裂かれ」とあるよう、キリストは人間の苦しみを十字架で「我が身」として背負い、同時にキリストが「我が身」を人間に献げることで関係性を回復しようとした。そのように「教会」は「互いに担う」という神の意志によって建て上げるというのが彼の理解だ。

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ボンヘッファーの教会観
ボンヘッファーの教会観において「(神との、また人との)交わり」は重要な要素となる。
例えば晩年に記された『共に生きる生活』では「今日、教会では敬虔な者としての交わりはあるが、罪人としての交わりはほとんど見受けられない」と語っている。「敬虔」とは目に見える立派な祈りや充分な奉仕であるが、時にそれは気を抜くといとも簡単に自己義認へ陥ってしまう。一方で「罪人」とは過ちや傷を負った人間の姿であるが、神はまさしくそのような人こそを教会に招き、神との、そして人との関係を回復し、共に生きることを望んでいるのだという。
ボンヘッファーは『聖徒の交わり』の中で教会を「教会として実存するキリスト」と定義した。それは紛れもなく教会が人間の趣味や主張からではなく、キリストご自身の裂かれたパン(体)によって集められた共同体であることを意味する。そしてキリストこそご自身が分け隔てなく人々を招いたよう、今日もまた世界中にその群れが広がっていくことを願っているとも彼は語る。
再考――あなたにとって教会とは?
さて、ここまでで少しでもボンヘッファーの教会理解を知るための助けとなっただろうか。本書では他にも聖霊の働きや教会と社会哲学との関わり、また終末論などについても語られている。今回は全体のわずか一部分を抽出したに過ぎないが「教会」をどう捉えるかについてのエッセンスであることには間違いないだろう。
そして改めて尋ねてみたい。あなたにとって「教会」とは何だろうか。ぜひ積極的に、そして快活さをもって考えてみてほしい。最後に『聖徒の交わり』から一節を引用したい。
教会の本質は、内側からのみ、<怒りと熱愛をもって>(cum ira et studio)理解することができるのであって、教会の中にいない人々には決して理解されない。
今日の「教会」を定義するのは社会でも周囲でもなく「あなた」だ。そして今日の「教会」を宣べ伝えるよう招かれているのも紛れもなく「あなた」だ。
教会に集うことは決してすべての人に理解され得る営みではない。しかし、それ自体はあなたが教会に集うことの妨げの本質とはならない。なぜならキリスト者にこそ、今日の教会の姿についてよく考え、学び、語り継ぐよう神が期待しているからだ。
また、教会に足を運んだことのない方々はぜひ「新しい空間」としてその門を潜ってみてほしい。確かにその目の前にある扉は重く感じるが、中に入ると今日もキリストがあなたを歓迎していたことに気づくはずだ。
そして私自身、聖徒の交わりが広がっていくように日々祈りつつ。
映画『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』(配給:ハーク)は11月7日(金)より全国公開。
【参考文献】
・ディートリヒ・ボンヘッファー、大宮溥訳『聖徒の交わり』(新教出版社、1966年)
・同上、森野善右衛門訳『共に生きる生活』(新教出版社、2018年)
【推薦図書】
・仲正昌樹『哲学JAM――現代社会をときほぐす』(共和国、2021年)
特に「第9講『宗教と哲学─救済は現代人にも必要か』」で展開されている「宗教」と「社会」の関係性についてはボンヘッファーの問題意識と重なるところも。「世俗化」から一歩進んだ「ポスト世俗化」と謳われる現代に果たしてキリスト教はどのような存在感を放っているのだろうか。ラインホルド・ニーバーやヨーゼフ・ラツィンガー(ベネディクト16世)にも言及されているなど神学を学ぶ人にとってかなり興味深い一冊。
また教会(教会論)について学びたい人には、朝岡勝『教会に生きる喜び:牧師と信徒のための教会論入門』(教文館、2018年)、R・C・スプロール、 老松望・楠望訳『教会とは何か』(いのちのことば社、2024年)などがおすすめ。キリスト教界で名著と呼ばれる作品のほとんどは価格が高騰しているかすでに絶版となっているかで中々手に入りずらい。その中でも上記の著作は内容も示唆に富んでおり、かつ最近発売された作品のため手に入れやすいだろう。
福島慎太郎
ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝の運営、幼稚園でのチャプレンなどを務める。連載「14歳からのボンヘッファー」「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。