【宗教リテラシー向上委員会】 心の中に仏塔を建てよう 向井真人 2025年10月1日

 お彼岸は、昼夜が等しい「明暗を分ける」時期である。この明暗とは、生きている人間の「明」と、亡き人の「暗」を象徴している。しかし、この二つは決して切り離されたものではない。仏壇や位牌、遺影を通じて、亡き人との対話は静かに続く。亡き人は肉声で答えないし、笑顔も年齢も変わらないが、生きる人間は日々変化し、歳を重ねる。この違いは、此岸と彼岸の関係を際立たせ、命の尊さを教えてくれる。

 お彼岸の供養は、墓前で手を合わせ、香を捧げる行為である。この行為は、亡き人を遠くに感じるのではなく、記憶や想いを通じて今この瞬間に呼び起こす。お釈迦さまの縁起の教えによれば、此岸があるから彼岸があり、彼岸があるから此岸がある。お互い様の関係は、命の灯を燃やす人間が亡き人を照らすのか、それとも亡き人が迷いの世界にいる人間を照らしてくれるのかを問うものだ。

 『大パリニッバーナ経』で、お釈迦さまは没後の自分のための塔を建てるよう弟子に説いた。2500年前、お釈迦さまの遺骨は八つの国に分骨され、仏塔が建立される。日本の卒塔婆や墓はここにあやかっているだろう。仏塔は単なる供養の場ではなく、時代や地域を超えた普遍的な教え、すなわち揺るぎない心の柱を象徴するのだ。

 仏教初期は、仏像は作られない。お釈迦さまを、菩提樹や法輪、足跡で表し、存在や意義を間接的に表現した。お彼岸もまた、目に見える墓や位牌を通じて、亡き人の存在や教えを心に刻む時間だ。「人はどこから来て、どこへ行くのか」という根源的な問いを投げかける。この問いは、命のつながりの中で自己を理解し、他者との絆を深める道を示す。来る前も行く先も知れぬまま、命の偉大さを信じることが大切なのだ。父母や先人たちの教えに支えられて今を生きている人間にとって、亡き人との対話は、過去の命の連なりを思い起こし、自己の存在を問う行為である。

 仏教の「諸行無常」の教えは、世のすべてが移ろい、執着が苦しみを生むと説く。心の仏塔を立てることは、執着から解き放たれ、揺るぎない信仰の柱を築くことだ。それは、ビャクシンのように頑なでもなく、柳のように流されるでもない、しなやかで凜とした心の姿勢である。山はどこからが山なのか。今、立っている場所も山とつながり、海の底とも地続きである。ビャクシンでありながらビャクシンから離れ、柳でありながら柳から離れる。ほとけとは、ほどけるものなのだ。

 悟りと迷い、静けさとうるささ、明るさと暗さ、二つの対立に人間は迷い苦しむ。迷いから悟りに至るのではなく、迷いと悟りの対立を超えねばならない。仏像にするとイメージが固定化されるきらいがあり、仏教初期には作られなかったのかもしれない。「揺るぎない心の柱:時代や地域に左右されない一定不変の教え」とは、ゆったりと、どっしりと、しかも凜然と、東海の天に突っ立ったような山々である。

 お彼岸は、亡き人を偲び、命の尊さを再確認する時である。墓前に手を合わせる一瞬に、すべての記憶と想いが集まり、心に仏塔が立つ。人間は過去からの連綿とした命のつながりの上に生まれる。一人で生きているが、一人では生きられない。この普遍的な真理を伝えるのが心の仏塔である。そこには、此岸と彼岸をつなぐ、普遍的な愛と信仰がある。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

UnsplashDavid Edelsteinが撮影した写真

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