終末論をめぐる神学的潮流 清水武夫氏が語るディスペンセーション主義の功罪 2025年10月9日

 日本長老教会武蔵中会教師試験委員会主催による研修会「ディスペンセーション主義について」が9月28日、オンラインで開催され、清水武夫氏(日本長老教会玉川上水キリスト教会牧師)が講師を務めた。

 ディスペンセーション主義(Dispensationalism)は、聖書解釈の一手法として、特にプロテスタント福音派の一部で受け入れられている。しかしその複雑さや字義的解釈の徹底ぶりから、一般的には誤解や偏った理解が生じやすいとされる。清水氏によると、この神学は19世紀イギリスのブレザレン運動に起源をもち、ジョン・ネルソン・ダービー、ベンジャミン・ウイルズ・ニュートン、ジョージ・ミュラーらが初期の代表的学者であった。アメリカに伝わるとD・L・ムーディやC・I・スコフィールドらによって広く普及し、特にスコフィールドが1909年に出版した『Scofield Reference Bible』の注解は、ディスペンセーション神学を象徴する存在となったと清水氏は解説した。

 この神学の基本的特徴は以下の通りである。

1.聖書の権威と絶対性を認める。
2.ディスペンセーション(神と人の関わりの時代的区分)の存在を認め、過去・現在・未来の三段階に分け、それぞれ神の契約や約束に基づくとする。
3.教会の独自性を認める(聖霊の内住、ユダヤ人・異邦人に区別なく与えられる恵みなど)。
4.普遍的教会の実際的意義を認める。
5.聖書預言の重要性を強調する。
6.患難期を未来の事象とする千年期前再臨説を採る。
7.キリストの切迫再臨を信じる(患難期前携挙説を中心に、患難期後携挙説も認める)。
8.イスラエル民族の国家的回復を認める。

 清水氏は、聖書の歴史を時代ごとに区分する手法について、古代教父や契約神学の立場を表明しているジョナサン・エドワーズも用いてきたが、単なる歴史的区分だけではディスペンセーション主義とは異なることを指摘。そのうえで、ディスペンセーション主義がしばしば陥る過度な字義的解釈や二元論に依存する傾向に注意が必要であると述べた。特に、旧約と新約の関係を過度に二元的に捉えることは、聖書全体の統一性や文脈理解を損なう危険性があるという。

 さらに、チャールズ・ライリーが掲げるディスペンセーション主義の三つの必須条件を紹介した。

1.イスラエルと教会の区別
 一貫して区別することが、ディスペンセーション主義者かどうかを判定する最も基本的かつ決定的な基準である。清水氏は、この二元論的区別が、時として教会とイスラエルの関係性を過度に硬直化させ、神の普遍的な救いの働きを軽視する危険を孕むと指摘した。

2.字義的解釈の適用
 イスラエルと教会の区別は、聖書を歴史的・文法的に文字通り解釈することで成立する。比喩的・寓話的解釈は排され、平易な字義通りの理解が必須である。清水氏は、このアプローチが極端に走ると、聖書の文学的ジャンルや歴史的背景を無視した解釈につながり、現代の神学的応用において不適切な結論を生みやすい点を問題視した。

3.神の栄光を中心とする理解
 救済計画は神の栄光を示す手段の一つであり、人間中心ではなく神中心の視点を貫くことが求められる。清水氏は、この理解が過剰になると、人間の倫理的・社会的側面や神の民全体に対する配慮が軽視される危険性を含むことを指摘した。

 清水氏は、この三条件を満たさないまま単に聖書を時代ごとに区分するだけでは、ディスペンセーション主義の本質を誤解する危険があると指摘した。また、古代教父や契約神学との違いを意識することも不可欠であるとしている。特に、ジョナサン・エドワーズのような契約神学者が採った時代区分は、神の救済的働きと人間への倫理的責任を総合的に理解するための手段であった点が指摘された。

 さらに、聖書を複数の時代に分けて理解することは、ディスペンセーション主義における重要な神学的土台である。清水氏はスコフィールドを引用しながら、これを「七つの時代」と呼び、それぞれの時代で神が人類に対する試みや裁きを行うと解説した。具体例として、創造から堕落までの「無垢の時代」、大洪水までの「良心の時代」、モーセ律法成立までの「律法の時代」、そして現在の「恵みの時代」が挙げられる。しかし、清水氏はこうした区分が字義的解釈に偏ると、神の計画の連続性や預言の多層的意味を見落とす危険があると警告した。

 また、ディスペンセーション主義は歴史的に三つの立場に分かれる。

1.古典的ディスペンセーション主義(CD)
 教会とイスラエルを二元論的に区別し、時代ごとの神の裁きや試みを強調する。スコフィールドやダービーが代表学者。清水氏は、極端なCDの立場では字義的解釈の行き過ぎによる過度な終末論が生じる可能性を指摘した。

2.修正ディスペンセーション主義(RD)
 1950年代以降に登場。二元論を緩和しつつ、イスラエルと教会を区別し、救いの恩恵は共通とする。ライリーやワルバードが属する。しかし清水氏は、近代的聖書学の方法論を十分に取り入れない場合、旧約の預言を現代に安易に適用する非聖書的解釈が生じる危険を警告した。

3.漸進的ディスペンセーション主義(PD)
 1990年代以降に登場。聖書学的進展を取り入れ、救いの完成を歴史的・段階的に理解。教会とイスラエルの区別は以前ほど厳格ではなく、聖書全体の統一性に重点を置く。清水氏は、PDはこれまでの問題点を改善しているが、依然として字義的解釈を中心とする傾向は残るとして注意を促した。

 ディスペンセーション主義の最大の特徴は字義的解釈である。預言や契約を比喩や寓話ではなく文字通り理解することを重視する。しかし、修正ディスペンセーション主義では、古典的二元論を維持しつつも近代的聖書学を十分に取り入れていない場合、非聖書的解釈を生みやすい。この場合の非聖書的解釈とは、(1)字義的解釈の優先による歴史・文学的文脈の無視、(2)旧約を現代状況にそのまま適用、(3)近代的聖書学方法論の軽視、を指す。なお漸進的ディスペンセーション主義はこれを改善し、旧約と新約を一貫した字義的解釈で比較・調和させる「相互補完的解釈(CH)」を提唱しているとのこと。

 また、ディスペンセーション主義では、教会を「恵みの時代」に挿入する「教会挿入説」や、イエスの王国宣教の拒絶により再臨まで延期する「王国延期説」が古典的には支持された。しかし漸進的立場では、福音書に描かれるイエスの活動は初期と後期で変わらず一貫しているとされる。この点について清水氏は、歴史的文脈や福音の連続性を無視する古典的アプローチは、聖書理解に歪みを生む可能性があると指摘した。

 清水氏は主要な契約についても指摘。例えば、アブラハム契約は神の地上的目的と天的目的の二つを啓示し、モーセ契約、パレスチナ契約(申命記29章1節~30章10節)、ダビデ契約、新しい契約はいずれも地上的目的の啓示と理解されている。他方、パレスチナ契約の29章1節(ヘブル語28章69節)は古代オリエント条約形式に対応し、29章2節以下を契約と考えることは不適当であると述べた。

 最後に清水氏は「ユダヤ人の大量改宗」にも言及。クリスチャン新聞で紹介された「終わりの日におけるユダヤ人の民族的救いと日本の覚醒」という主張を取り上げ、イスラエル救済には異邦人救済の完成が前提とされるが、「日本の覚醒」は聖書的根拠が明確でないと指摘した。パウロの『ローマ人への手紙』11章25~26節を踏まえると、異邦人救済完了後に自動的にイスラエル救済が始まるとは限らず、終末論的順序には慎重さが必要である。

 ディスペンセーション主義の理解には、イスラエルと教会の区別、字義的解釈、歴史的文脈の把握が不可欠である。清水氏は、字義的解釈や契約理解の過信が誤解や過度な終末論に繋がる危険性を指摘し、慎重な聖書理解の重要性を強調した。ディスペンセーション神学は現代の終末論議論に影響を与える一方、その極端な二元論や過度の字義解釈には批判的な目が必要であると結んでいる。

(福島慎太郎)

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