【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】番外編 厳しい恩師の追憶 沼田和也 2025年11月1日

 私は神学部大学院の前期課程を31歳で修了し、遅まきながらようやく「社会人」として働き始めました。18歳以降の断続的ひきこもりから紆余曲折を経て25歳で神学部に入り、アルバイトをしたことはありましたが、「正社員」(牧師という務めにそのような呼び方はふさわしくないのかもしれませんが)になったのは、これが生まれて初めてのことでした。実家から出たことも、遠隔地に旅行に行ったこともなかった人間が、いきなり愛媛県で一人暮らしを始めたのです。それが、宇和島中町教会という教会での、伝道師の務めの始まりでした。上司は、私よりちょうど50歳上の清家リツヱ牧師という大正生まれの女性でした。

 清家先生はユーモアにあふれ、人を惹きつける魅力を持っていました。今となってはどうやってきっかけを得たのか分からないのですが、先生は一度も実際に会ったことのない人たちと頻繁に文通しては、献金を送ってもらっていました。それがまた、かなりの金額でした。彼女が座卓の前に正座し、官製はがきにびっしりと小さな文字を埋めていたのを覚えています。そういった便りを、方々に送っていました。彼女はいつも身なりをきちんとしていたのですが、その着ているものも、支援者たちからのものがほとんどでした。

 彼女がそこまでなるには、開戦の年に受洗し、戦後の時代に伝道者を志し、九州の教会で牧会してきた、苦難の歴史がありました。セクシュアルハラスメントの「セ」の字も存在しない時代に、若く独身だった彼女がどれほどの辛酸をなめたか。その断片を、私もお聞きしたことがあります。

写真はイメージ

 そういう険しい道のりを歩んできた彼女でしたから、私への指導はとても厳しいものでした。社会人の経験も乏しかった私には、彼女の鞄持ちから始めるのはたいへんなことでした。姿勢が悪ければ注意され、態度が未熟であれば叱られ、時には正座で2、3時間ばかり「お説教」を受けることもしばしば。私は足の痺れに耐えながら、先生の背後に見える掛け時計の針ばかり見つめていたものです。

 朝の6時から8時までは、礼拝堂の床に正座して、清家先生と早朝のお祈りをしていました。先生は関係者一人ひとりの名前を挙げて、――それは時に数十人に上ぼりました――祈り続けました。底冷えする寒い日も、先生はそうやって何十年、祈り続けてきたのです。

 先生の家庭訪問について行く時が、私にとっては「見て覚える」最も大切な時間でした。清家先生はほとんど毎日、どこかに出かけていました。信徒だけでなく、この人はと思うところに出かけては声をかけるのです。例えば桶屋さんが桶を作っているところに「あんた教会に来なはい」と声をかけると、彼は本当に特別伝道集会に来てくれました。キリスト教などまったく興味なさそうな職人さんが教会に来てくれることに、私は驚きました。

 そんな先生から仕事を教わり始めて1年あまり経ったある日、家庭訪問の道すがら、彼女は私に言いました。

 「あなたに卒業証書をあげます。私は死ぬよ」「先生、まだまだ老後を楽しんでくださいよ」「もう十分楽しんだよ。大切な人たちがあっちで待っているの」

 それからほどなく、先生は天へ召されました。私の初めての葬儀に備えて、先生は最期の力を振りしぼり、参列者への御礼の言葉をあらかじめ用意し、弁当屋の手配までしてくれていました。葬儀を終えて、初めて私は宇和島の一員になれた気がしました。しかし、本番はこれからでした。(つづく)

ぬまた・かずや 1972年兵庫県生まれ。高校を中退、ひきこもる。受験浪人中、1995年に阪神・淡路大震災に遭遇。大学中退後、再びひきこもるが、関西学院大学神学部に進学。同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。牧師になるも2015年、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院。退院後、療養期間を経て現在、日本基督教団王子北教会牧師。

UnsplashRobson Hatsukami Morganが撮影した写真

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