【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 〝お断りの祈り〟も届かず… 今井朋恵 2025年12月1日

タオルと造船の町、今治に来て30年。瀬戸内の穏やかな気候と自然の中で愛媛は心地よい。このように思い至るまで、いろいろなことがあった。私は、キリスト教とはまったく縁のないところで育った。親の教育方針で女の子は短大へ、気が乗らなかった短大で聖書を知り、ワークキャンプ(FIWC)を通しハンセン病回復者や障がいがある人々と出会った。出会いは、かけがえのない財産となった。
自らの余命を知るクリスチャンの教師が、短大のチャペルで笑みを浮かべ、オルガンを弾いておられた。「この人の内で何が起こっているのか」と驚いた。会社に勤めていたころ、文通していたハンセン病回復者の松原さん(仮名=園で与えられた名前)が突然亡くなられた。強制隔離により園で暮らす松原さんが、確かに世界の中で尊厳を持ち生きられたことを形にしたいと願った私は、教会へ行くことだけ決めた。松原さんはカトリック信者だった。
少し前に親友がクリスチャンになり、同じ教会へ通った。信仰を持つ予定はないため、牧師にその旨を伝えた。1年3カ月後、イエス様を信じて歩みたいと願いが起こされるが、家族は猛反対。信仰を持って4年、祈りの中で「神学校へ行け」との示しを感じ、それは勘弁願いたいと4カ月間〝お断りの祈り〟をするも取りのけられなかった。もはや、勘当同然で家を出た。
神学校の最終年、今治を奉仕教会にして通い、1992年神学校卒業後、先に夫が牧師となっている今治の教会へ赴任することとなった。後に知るが、ここは1963年に教会として組織されたころから「女こどもの教会」と称されていた。赴任当時、女性が牧師になることは稀な時代、夫婦で同じ教会に赴任する前例も少なく、私に対する周囲からのバッシングは強かった。長年、性差別を受け苦しむことに意味があるのかと悩むが、祈り、応援してくださる方々の存在はありがたかった。公の場で私を助けてくださった先輩牧師、数少ない友を今も忘れない。

しまなみ海道の景色
ある時、セクシュアリティについて共に考える機会が教会に与えられた。差別を受け続ける苦しさを想像し、教会は盾となり歩むことを決意した。2000年、「すべての人が来られる教会」をテーマに新会堂建築、小学校の前に建てられた教会として、子ども伝道を主軸とした。連盟内には、「祈りの支援」を求めた。会堂建築も子ども伝道も、主が導いてくださった。地域の子どもたちは約15年で、延べ2千人を優に超えて導かれた。サマーキャンプも一緒に思いっきり遊んだ。子どもたちの心に福音の種は蒔かれ、やがて各地に旅立った。
今は、コロナ禍と高齢化もあり、教会は寂しさの中にある。それでも、小学生へのなぞなぞ入りみ言葉カードは、コロナ禍のころより継続し、4千枚以上配布した。カードを楽しみにしてくださる先生や子どもたちに励まされる。
何もないようだけれども、キリストにある「幸い」を見出すスキルを磨く日々。牧師や誰かの名ではなく、イエス・キリストのみ名が崇められる教会を目指して歩む。経済・人数・人脈・世の常識が、重視されがちなキリスト教社会にあって、当教会は常識外れと思える歩みをしてきたのかもしれない。
「弱い教会だが、信仰はある」。60年以上前の教会組織の言葉を、教会へのエールと解し進もう。最も弱い人にどう関わるかは、自分自身への問いであり、同時にそれはすべての人に幸せをもたらすカギだと思う。

いまい・ともえ 九州出身。短期大学日本文学科卒業後、写真印刷社の企画部勤務を経て、西南学院大学神学部へ入学、1992年3月同大学卒業。1992年4月に日本バプテスト連盟今治バプテスト教会へ牧師として赴任、現在に至る。2018年より徳山バプテスト伝道所協力牧師を兼務。趣味は油絵。

















