【映画短評】 感動も愛も利用されない社会へ 『愛がきこえる』 2026年1月6日

聴覚障害者のシャオマーと健聴者のムームーは父娘二人暮らし。一人では仕事がままならないシャオマーのため、7歳のムームーが彼の耳となっている。ゆえに彼女は学校に行けない。住環境にも問題がある。それでも楽しく暮らす二人だがある日、別れた妻に親権をめぐって裁判を起こされる。不利なシャオマーは大金を稼ぐため、詐欺組織に身を委ねてしまう。
聴覚障害者がいかにして不利な立場に追いやられるか、が克明に描かれる。聴覚障害者の世界と聴者の世界が分断しているのはその結果であり、同時に(前者にとって)やむを得ない生存戦略でもある。その両者の間に立ち、時に引き裂かれるのがムームーたちCODA(Children of Deaf Adults=聞こえない親を持つ聞こえる子ども)だ。成人したムームーは両者を繋ぐ活動に従事するが、彼女がそれを(幼少期から)負わなければならなかった構造を思うと、手放しに喜んで良いものか分からない。
シャオマーと彼の仲間の聴覚障害者たちが、揃って善人として描かれる点に違和感がある。彼らが純粋で優しく、どこまでも自己犠牲的だからこそ(本作を視聴して)感動できるとしたら、そこにも障害者への偏見が潜んでいる。彼らがずる賢かったり怠惰だったりしても、必要な支援が受けられ、健聴者と同じように生活できなければならない。本作のような感動が利用されない社会こそ、障害者差別の解消に必要なはずだ。
そして邦題の『愛がきこえる』は「耳がきこえなくても愛はきこえる」という意味だが(原題もほぼ同じ)、上記の感動と同様、本来なら愛も利用されてはならないと思う。
(ライター 河島文成)
2026年1月9日(金)全国ロードショー。

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