【宗教リテラシー向上委員会】 慈悲の愛 向井真人 2026年3月1日

 人類共通の願いはただ一つだろう、それは「幸せに暮らしたい」。2500年前の人々も、2000年前の人々も同じ願いを抱き、苦しみ、問い続けた。仏教のはじまりとなった人、お釈迦さまは世の真理を見通し、覚者(ブッダ)となった。

 ある時、1人の王がお釈迦さまに尋ねた。「あなたは『愛するなかれ』と他人に教えていると聞く。愛すれば愛するほど人は苦しむ、と。確かにその通りかもしれない。だが、愛がなければ人生は空しいし、わたしの心も安らがない。本当の愛とはなにかどうか教えてほしい」と。

 普通私たちが「愛」と呼ぶものは、親子愛、家族愛、ふたりの愛、あるいは同じ階級・同じ国の者に対するものだ。そこには必ず「私と私のもの」「あちらとこちら」という観念がつきまとう。だからこそ、利己心と所有欲が染みつき、失う恐怖が生まれ、期待が裏切られた時の絶望が生まれる。さらに危険なのが、差別に基づく愛だ。愛する者の輪の外にいる人々を、無関心にし、やがて憎悪へと変えてしまう可能性がある。

 ブッダは静かに答えた。「人は確かに愛を必要としている。だがそれは欲望や執着から生まれる愛ではない。真に必要な愛は、渇愛ではない。自分の渇きを癒やすための愛ではない。気づくべきは『慈悲』という愛である」と。

 慈とは、他者の幸福を我がことのように喜ぶ、生きとし生けるものに楽を与える心。悲とは、他者の苦しみを我がことのように悲しむ、生きとし生けるものの苦を抜く心。この二つが、慈悲である。慈悲は一切の見返りを求めない。親も、子も、配偶者も、親族も、同胞も、敵も、すべての人に、すべての命あるものに慈悲の愛は等しく注がれる。そこに「私のもの」という区別はない。執着が生まれないため自由であり、新鮮な人間関係が続いていく。一国の繁栄が他国の貧困の上に成り立たないように、私たち一人ひとりの幸せも、すべての人の幸せを願う共通の使命の上にしか成り立たない。「幸せに暮らしたい」とは自分ひとりではなく、遠い、輪の外だと信じているこの世界に住む人たちまで含んでいる。

 「幸せに暮らしたい」の主体に含むべき者とは、生きている者同士だけの話ではない。亡き人との和解も必要なのだ。仏とはほどけること。供養とは、生きていた時の人間関係からほどけること、自分が旅立つこと。亡き人が先祖へと続く道を歩み、旅立つことなのだ。「自分」と「それ以外」という分断がほどけ、一つとなる時、真の平和と繁栄は初めて可能になる。

 仏教の愛の本質は、無執着、無我である。自分の人生を自分で生きようとする者は、まず世の真理を見通すことだ。愛のあふれる世界の本質に気づかなければならない。なぜなら、愛こそが、幸せに生きることを支える根源だからだ。台風が来れば私たちは苦しみ、ともに感じる。病で死にゆく者を見れば、胸を痛める。しかし、その時私は倒れてはならないし、そもそも倒れない。不安や苦しみを「ともに感じる」ことは大切だが、他者の苦しみに関わっていく力を生み出すことに注目したい。

 つまり、愛の力は、理解である。気づきである。悟りである。

 この私は自分自身の王である。この身体と心という国を、世界の有り様に合わせて治めている。その道は、他の道と交わる。生きている者との人間交差点もある。亡き人との、懐かしい交わりもある。その時、とらわれを離れ、ただ理解することだ。それこそが、平和への道、幸せへの道である。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

UnsplashMiranda Yeungが撮影した写真

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