【この世界の片隅から】 中国教会の世代交代――1970~80年代の分化と再編 袁浩 2026年3月21日

 1970年代末から1980年代初頭にかけての時期は、現代中国の歴史において重要な転換期であった。文化大革命の終結と改革開放の開始に伴い、中国は政治・経済・社会・対外関係など多くの分野において、新旧の制度や発展モデルが交替する歴史的段階へと入った。

 一方では、従来の制度や統治モデルが依然としてかなりの程度、維持されていた。例えば政治の領域では、中国共産党が依然として国家権力を独占していた。経済体制においても、計画経済はなお一定の割合を占めていた。国家と社会の関係においては、国家が民間社会に対して比較的全面的な統制を行い続けていた。さらに対外関係においても、中国は依然として自らを社会主義陣営に属する国家と位置づけ、資本主義世界との差異を強調していた。

 しかし同時に注意すべきことは、こうした旧来の制度やモデルの正当性や影響力が弱まりつつあったという点である。それと並行して、新しい制度や発展モデルが少しずつ確立され始めていた。

 政治構造の面では、党と国家の関係が高度に一体化した状態から、ある程度の制度的分化へと向かっていった。経済の分野では、国家権力が一部の経済活動から後退し、市場メカニズムがより大きな役割を果たし始めた。経済体制においても、市場経済的要素が高度に中央集権化した計画経済を次第に置き換え始めた。対外関係の面では、中国と欧米諸国との政治的隔たりが次第に縮まり、双方はより緊密な経済的・外交的関係を築き始め、中国自身も徐々に世界システムへと組み込まれていくことを試みるようになった。

 こうした中国の政治・経済・社会における新旧交替は、宗教(キリスト教を含む)の領域における国家の公共政策と管理方式にも直接的な影響を与えた。その結果、文化大革命期とは異なる国家と宗教の関係が形成されていくことになった。

 文化大革命期には、中国共産党はきわめて急進的な宗教政策を実施し、国家暴力によって宗教を完全に消滅させようとした。キリスト教を含むあらゆる宗教活動は全面的に禁止され、すべて地下化し、秘密裏に行われるほかなかった。しかし文化大革命が終結し、改革開放が始まると、中国共産党は宗教政策を調整し、比較的穏健な統治方式を採るようになった。国家は依然として宗教活動を制限し管理し続けたものの、宗教に対して文化大革命期よりもはるかに大きな生存空間を与えるようになったのである。

 この政策転換を象徴するものが、1982年3月に中国共産党中央が公布した『我が国の社会主義初級段階における宗教問題に関する基本的見解と基本政策』(「19号文書」)である。この文書は、一方では独占的地位を持つ愛国宗教団体である三自愛国教会を通じてキリスト教を統合・管理しようとした。他方で、非公式な家庭集会の存在についても、一定の範囲で容認する姿勢を示した。

 こうした背景のもとで、1970年代末から80年代初頭にかけて国家と宗教の関係が再調整されることとなり、その結果、中国教会の内部には新たな分化と再編が生じることになった。

寧波の百年堂

一 都市三自愛国教会の再出現

 文化大革命期には、たとえ国家に公認されていた三自愛国教会であっても国家によって取り締まりを受けていた。そのため、すべての教会活動は秘密・地下・違法という形で行われるほかなかった。しかし文化大革命が終結すると、政府は一部の教会財産を返還し、監獄や労働改造農場に収容されていたプロテスタントの伝道者を釈放した。また三自愛国教会の合法的地位を回復させ、主日礼拝の再開を認めた。

 1979年、寧波の教会「百年堂」が再び礼拝を行うようになったことは、三自愛国教会が公開活動を回復した象徴的出来事と広くみなされている。その後、各地の都市部の教会が徐々に集会を再開し、中国政府が公認する合法的キリスト教組織としての三自愛国教会は、再び中国キリスト教の表舞台に姿を現すこととなった。

二 農村教会の三自愛国教会と家庭教会への分化

 文化大革命期には、すべての宗教活動が禁止されていたため、各地の教会は基本的に地下の家庭集会という形で存在していた。三自愛国教会が活動を再開すると、1966年から79年にかけて形成された地下集会は新たな選択を迫られることになった。すなわち、登録して公開・合法的な三自愛国教会体制に加入するのかどうか、という問題である。

 この問題をめぐって、農村教会の間では次第に異なる発展方向が生まれた。ある教会は登録して三自愛国教会に加入する道を選んだが、別の教会はそれを断固として拒否し、「家庭教会」として歩む道を選んだ。

 温州の教会は、中国で最も早く復興の兆しを示した地域教会の一つである。1960年代の文化大革命期からすでに、温州地域の農村信徒たちは家庭や野外、あるいは山中などで秘密裏に集会を行っていた。1980年代初頭になると、三自愛国教会に加入するかどうかをめぐって温州教会は賛成派と反対派の二つの陣営に分かれ、鋭く対立する状況が生まれた。

 河南省や安徽省などの地域においても、1980年代初頭には農村教会が同様の圧力と選択に直面した。いくつかの教会は当初三自愛国教会に加入したものの、その後離脱し、再び非三自あるいは反三自の家庭教会の道へ戻ることを選んだ。このような立場の転換は、都市家庭教会の伝道者やネットワークの影響をある程度受けていた。

三 伝統的都市家庭教会の台頭

 1950年代から文化大革命期にかけて、多くのプロテスタントの伝道者が信仰を理由に投獄され、あるいは労働改造に送られた。文化大革命の終結後、彼らは再び自由の身となった。そして都市において三自愛国教会が公開活動を回復していくのを目にしたとき、彼らの一部は三自愛国教会に参加することを望まなかった。その主な理由は、三自愛国教会の指導者である呉耀宗(1893~1979年)や丁光訓(1915~2012年)らが代表する自由主義神学に対する批判的立場にあった。また、1949年以降の三自愛国教会が信仰の面で過度の妥協を行ってきたと彼らが考えていたことも理由であった。

 こうして一部の伝道者は家庭での集会を再び組織し、いわゆる「伝統的都市家庭教会」が形成されていった。例えば、1974年に楊心斐(2025年12月1日付本欄参照)が厦門で設立した巡司頂教会、1979年に林献羔(1924~2013年)が広州で設立した大馬站教会、1980年に袁相忱(1914~2005年)が北京で始めた白塔寺集会、そして1985年に顔鴻斌(生没年不詳)が上海で設立した家庭教会などが挙げられる。

 これらの都市家庭教会は、神学的立場としては多くが福音主義的あるいは根本主義的(ファンダメンタル)な傾向を持ち、教会のあり方としては一般に反三自愛国教会の立場を取っていた。さらに、これら家庭教会の指導者が全国の教会の中で霊的影響力を拡大していくにつれて、その神学的立場や教会観は一部の農村教会にも影響を与え、農村教会の中でも反三自愛国教会の路線を支持する動きが徐々に広がっていった。

1989年、袁相忱夫妻(左)と王明道夫妻(右)

小結

 総じて言えば、1970年代末から80年代初頭にかけての中国社会の転換と政策調整は、宗教活動が再び回復し発展する歴史的契機を提供したと言える。新たな宗教政策の枠組みのもとで、中国キリスト教は文化大革命期における全面的地下化の状態から脱することになった。しかし同時に、国家の宗教政策や三自愛国教会に対する態度の違いによって、中国教会内部には新たな構造的分化が生じた。

 一方では、三自愛国教会に代表される公認教会体系が都市部において徐々に復活し、合法的地位を獲得していった。他方では、農村教会や都市家庭教会が、程度の差こそあれ、三自愛国教会とは異なる道を選んだ。その結果、改革開放初期の中国では、政府公認の三自愛国教会と政府非公認の家庭教会が並存し、相互に影響を及ぼし合う構造が形成された。この構造は、その後数十年にわたる中国教会の発展の基本的形態を深く規定することとなった。

(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)

袁浩
 ユエン・ハオ
 1980年生まれ、中国山東省出身。北京大学で修士号、香港中文大学で博士号(Ph.D.)を取得。現在、カナダ・バンクーバーのバプテスト福音教会の伝道師、トリニティ・ウエスタン大学に設けられているACTS(Associated Canadian Theological Schools)の中国語部の客員教授。専門は中国キリスト教史。

連載一覧ページへ

連載の最新記事一覧

  • 聖コレクション リアル神ゲーあります。「聖書で、遊ぼう。」聖書コレクション
  • 求人/募集/招聘