【映画評】 マグダレンの十字架 『決断のとき』 2026年3月20日

人の生だけが意味をもつというのでなく、あたりを吹く風や林奥で息を潜める動物の体温にこそこの世の秘密は宿っているというような。霧のたちこめる、小雨のやまないヒースやイグサの生い茂る荒れ野こそが本当の主人公というような、ささやき声の物語。
アイルランドの片田舎でカトリック農家の末娘として生まれた作家クレア・キーガンの初邦訳作『青い野を歩く』(Walk the Blue Fields)を読んだ十数年前、そのようにとても静かな印象が訪れたことを覚えている。
クリスマスが近づいてきた。もう広場にはしゃれた樅の木が据えられ、その隣には、イエスがお生まれになった飼い葉桶と、降誕を祝う人々の像も飾られていた。まだペンキ塗りたてのこの像は、聖ヨゼフの赤と紫のローブについては、色がどぎつすぎると苦情が出たものの、聖母マリアは伝統的な青と白の出で立ちで奥ゆかしく跪いており、おおむね好評だった。たがいにそっくりの茶色いロバも、眠る二匹の雌羊と飼い葉桶を見守るように寄り添っていて、クリスマスイヴにはこの桶に幼子イエスの像が置かれるだろう。
クレア・キーガン3冊目の日本語訳作品である『ほんのささいなこと』は、こうしてクリスマス前の穏やかな期待に充ちた小さな町の描写から始まる。本作はアイルランドにて映画化され、邦題『決断するとき』としてこの2026年3月に日本公開となる。実はキーガン2冊目の邦訳『あずかりっ子』(An Cailín Ciúin)も2022年に映画化され『コット、はじまりの夏』の邦題でのち日本公開へ至っており、自然ベースの深い情感描写に『青い野を歩く』と並ぶものを感じていた。それゆえ最新作が、現代アイルランド社会のタブーともされてきた〝マグダレン洗濯所〟を舞台に据えた、訴求的な作品であることにまず驚かされた。
マグダレン洗濯所は、1996年までアイルランドに実在した母子収容施設で、当時の社会的に歓迎されない仕方で妊娠した女性が送り込まれ、労働を強制されていた。収容女性の数は1~3万人と言われ、出された里子は膨大な数にのぼるはずだが、記録が破棄されており確かなことはわからない。2021年に調査が行われた18施設だけで9千人の子どもが亡くなったとも判明した。これらの数字はキーガン自身による『ほんのささいなこと』あとがきに拠る。施設はカトリック教会とアイルランド政府により運営されていた。作中にも描かれる、修道院が運営する町一番の伝統と格式を誇る私立学校とマグダレン洗濯所とが壁一枚で隣り合う様子は、内実が明らかとなった今日の目にはどうにもグロテスクな皮肉と映る。
映画で石炭商人である主人公ファーロングに扮するキリアン・マーフィーは、自らプロデューサーとなりこのキーガン原作映画化を推進した。彼が演じる役柄をどれだけ深く消化しているかは、端々で見せる無言演技の逐一が、キーガンの地の文による描写を過不足なく肩代わりしていることからも窺える。炭小屋に幽閉されていた少女をめぐり、稀代の名優エミリー・ワトソン演じる修道院長と暖炉の炎を前にくり広げられる対決シーンは静かだが厳しい緊張を孕み、原作よりむしろ映画版において作品のハイライトとして昇華されている。
少女たちの過酷な現実を知ってしまった主人公ファーロングは考える。「不義の子」として生を受けた自身や母もまた、一歩間違えばマグダレン洗濯所へ送り込まれていただろう。身近な人々の助力もあって運良くそうはならずに育ち、慎ましやかだとしても妻と娘たちに今は恵まれ、家族へ贈るクリスマスプレゼントに悩むような幸福の中に自分はいる。娘たちの進学を考えても、修道院長に従ってここは何も見なかったとすべきなのは明らかだ。しかしそれでいいのだろうか、本当に?
キリアン・マーフィーは2024年、本作を鏑矢とする映画会社《Big Things Films》を立ち上げた。『ほんのささやかなこと』の原題であり映画版の英題でもあるフレーズ“Small Things Like These”は、直接的には作品終盤でようやく回収される。いま目の前にある《ほんのささやかなことたち》と己はどう関わるか、あるいは目を背けるか。その選択こそを、だいじにする生きかたもあるということ。教会の正義を脇においても、私たちは人生から問いかけられている。それは確かだ。
(ライター 藤本徹)
『決断するとき』 Small Things Like These
公式サイト:https://unpfilm.com/ketsudan/
TOHOシネマズ シャンテ、新宿武蔵野館ほか全国順次公開中。
【関連過去記事】
https://www.kirishin.com/2025/04/10/72294/
https://www.kirishin.com/2022/11/21/57165/
https://www.kirishin.com/2024/11/26/70340/
https://www.kirishin.com/2025/04/10/72294/
【本稿筆者による関連作品別ツイート】
『決断するとき』🇮🇪 Small Things Like These
炭鉱商人の男が、修道院で幽閉下の少女と遭遇、救うべきか苦悩しだす。
キリアン・マーフィが自ら熱望し、クレア・キーガン原作を映画化。近年まで実在したマグダレン洗濯所のタブーへ挑む。修道院長役エミリー・ワトソン怪演。https://t.co/g6lCtVsTHh pic.twitter.com/366cDcOA0o
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) March 20, 2026
『コット、はじまりの夏』🇮🇪
9歳の寡黙な少女が味わう夏の煌めき。
騒々しい大家族から老夫妻の元へ送られ浸る無音の孤独と、地から滲み出すように少女を包み込む慈愛の深さ。
クレア・キーガン原作の丁寧な描写を漏れなく汲み取ろうという映像意思に慄える。変わりゆく少女の顔つき、これは泣く。 https://t.co/WyuteJwzsZ pic.twitter.com/yn4pSD5Xbx
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) January 25, 2024
クレア・キーガン『青い野を歩く』読む。人の生に意味があるのではなく、人のそばを吹く風や辺りに棲む動物の体温にこそこの世の秘密は宿っているというような。霧のたちこめる、小雨のやまないヒースやイグサの生い茂る荒れ野こそが本当の主人公というような、ささやき声の物語。
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) February 23, 2010
『プロフェッショナル』🇮🇪In the Land of Saints and Sinners
かつて北アイルランド紛争を戦った老闘士が、IRA愚連隊との対決を迫られる。
🇮🇪独立戦争の英雄演じる“マイケル・コリンズ”で世に出たリーアム・ニーソン入魂作。全編絶景眼福、“ベルファスト”のキアラン・ハインズら🇮🇪名優陣が魅了する。 https://t.co/GZdwIyOttJ pic.twitter.com/VbpO9mJIkY
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) April 3, 2025
『ベルファスト』🇬🇧
北アイルランドの町ベルファスト。
人情に厚い路地のコミュニティが、プロテスタント過激派の暴動が起きた日から一挙に分断、変貌しゆく。
品格と技巧のケネス・ブラナー監督による半自伝作。ベルファスト出身者を含む名優らの競演と、質実に研ぎ澄まされた構図の逐一で魅せる。 pic.twitter.com/la7Oav4L4q
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) March 14, 2022
『ウルフウォーカー』
狩人の娘とオオカミ娘の出逢い描くアイルランド版もののけ姫は、森奥と城郭都市の神話的対峙も鮮やかな全編眼福作。
“ブレンダンとケルズの秘密”“ソング・オブ・ザ・シー”と傑作続きのカートゥーン・サルーン、さらに超えてきたアニメ表現の圧倒的な独創性と澄明さに陶酔する。 pic.twitter.com/n6tRThv8H7
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) October 18, 2020
『聖なる証』🇮🇪🇬🇧Netflix
4ヶ月何も食べてない少女の“奇蹟”を調査するため、英国人看護師がアイルランドの僻村を訪れる。
お前は何を信じるのか。十字架の威を借る男達と盲信に縋る女達のさばる19世紀の大飢饉後を物語る胆力は、コロナ禍の今日を鋭利に貫く。
食べまくるフローレンス・ピュー燦然。 https://t.co/dWbKlwOtal pic.twitter.com/IVOxS8ce3r
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) November 19, 2022
『イニシェリン島の精霊』🇮🇪
狭い孤島で起こる、ある友情の奇妙なゆくえ。
黒ビールと絶景を仲立ちに、コリン・ファレルとブレンダン・グリーソンが熱演する。アイリッシュ系のマーティン・マクドナー監督(スリー・ビルボード)が、母国の独立戦争をも相対化し人間を慈しむ。https://t.co/52r60hPHHT pic.twitter.com/4PrIPsvshl
— 土岐小映⚓️ρꛅᘿ𖦪ﺃ ʍ (@pherim) April 5, 2025
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