【教会の彼方】 危機の時代にキリスト者として立つ(3)齋藤弘 勝敗よりも実質的成果が重要 2016年8月13日

 戦後70年を経て岐路に立つニッポン。参議院議員、そして東京都知事を選ぶ大きな節目を越え、なおも混迷する政治情勢の中、今年も灼熱の〝8月15日〟を迎えようとしている。世界では米大統領選やイギリスのEU離脱に象徴される排外主義の台頭が目覚ましい。教会と国家、信仰と政治をめぐっても、さまざまな言論が飛び交ってきたが、憲法が掲げる理想の平和像とは程遠い現実が横たわる。この夏、一人の牧師、信徒、有権者としての素朴な声を集めてみた。教会の次代を拓く若者たちは、その「彼方」に何を見る――。(本紙・松谷信司)

 今後、改憲が実現する方向に傾くと思いますが、法解釈の面、心情的な側面、戦争に至るまでのケーススタディなど、それぞれの課題を切り分けて議論する必要があるでしょう。教会がこれらの問題に何らかの解決策を示せるかと言えば、現状のままでは難しいと思います。自分たちにとって都合の悪い状況を「苦難に耐え忍ぶ」と自己肯定しているうちは、結果につながらないと自覚した方がいいかもしれません。単に声明を出すとか、いつもの形態で祈り続けるのではなく、教会外の多くの人とつながりを持って、一方的に主張するのではなくすり合わせる役割が必要ですし、教会にはそういう賜物が与えられているはずです。

 その意味でも、教会が一般倫理と神学的信仰を混同し、他者を裁くことは避けるべきです。例えば改憲や原発の議論は、担当者間の人格批判に終始してはいけません。相容れない要素が強く感じられる時ほど、相手を尊重する姿勢こそが「伝わる」という実質的な成果につながります。そのためには相手と同じ土俵に立ち、相手の文脈に合わせてメッセージを伝える必要があります。

 可否を是非に、正誤を善悪に置き換えてしまうのも陥りがちな誤りです。自分たちが正義の立場に立ってしまうと、方法論の検討も不要になり、これまでどおり自分たちのポジションを堅持することに固執しがちです。

 自分は信仰的に正しいという発想自体が偶像崇拝の始まりです。それぞれが持っている信仰は絶対的な真実ではなく、あくまで個人の観念であって、絶対的な何かとして共有されているものが一致しているかどうかは分かりません。とりわけ改革派教会は本来、正解を祈り求め、思考と実践を繰り返し、常に新しくされ続ける必要があります。

 日本は明治以降、責任を分散する組織づくりが進んだ一方、戦略上のリスク分散は意識されず、これと決めたら視野が狭いまま突き進む傾向がありました。役割分担によって全体の目的を追究することができないため、指示が上位下達になりがちな点は、日本の既成宗教にも通じる課題です。

 自分にとって安心できる信仰の環境を一端わきに置くことは、自分が与えられた役割を果たすために何をなすべきかと考える切り口になると思います。わたしもクリスチャンホームに育ち、神学部で学んだ身として、母教会に居続けることを望んでもらえる立場だったのですが、イエスが「親や兄弟を捨てる」(ルカ14章)と言及したことを常に思い起こすようにしています。自分たちの共同体を守ることは手段にすぎません。わたしたちがすでに持っている福音を、いかに外部の人が理解できる言葉に置き換えられるかという点に主眼を置きたいと思っています。

 信仰生活を「戦い」と表現することがありますが、「勝った/負けた」という発想は、どうしても一喜一憂につながります。その場の勝敗よりも、問題が解決したかどうか、成果が得られたかどうかで見ていく必要があります。選挙の一時的な勝利や、信徒数が一時的に増えたという現象にのみ固執して満足するのではなく、長期的ビジョンを持ってどのステップが達成されたかにこそ目を向けるべきではないでしょうか。

 現時点の課題に向き合う際は、信徒の歴史を踏まえた上で、各世代が担う役割を段階的に目測したいところです。訳文すら変遷があるのに、日本語の教義の一文言や聖書解釈に固執することが、歴史的に意味をなすでしょうか。信仰と方法論を混同し、結論が出せなくなるのは世俗の組織以下の状態です。

 神の永遠性に期待するなら、準備できることはもっとあるでしょう。それぞれの教会が与えられた賜物を生かしつつ、種をまきながら全体として実りを生み出していくためにも、教派間でさらに協力し合える関係ができればと願っています。

(さいとう・ひろむ=日本キリスト教会札幌豊平教会員)

 

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