山田火砂子監督のお別れ会に出演俳優らも参列 思い出を語る 2025年3月31日

今年1月13日に誤えん性肺炎や敗血症で亡くなった映画監督の山田火砂子(ひさこ)さん(享年92歳)のお別れ会(現代ぷろだくしょん主催)が3月25日、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会(東京都新宿区)で執り行われた。日本で現役最高齢だった女性監督を慕い、作品を大事に思う俳優、製作スタッフ、ファンら約200人が集い、誰もが人間らしく生きたいように生きられる世界を目指し映画を撮り続けた山田監督を偲(しの)んだ。
山田監督は1932年に東京で生まれ、舞台女優などを経て、現代ぷろだくしょんの映画製作・宣伝に参加。64歳の時に、重度の知的障害がある自身の長女と歩んできた半生を描いたアニメ映画『エンジェルがとんだ日』で映画監督としてデビューした。2004年には72歳にして『石井のおとうさんありがとう 岡山孤児院・石井十次の生涯』で実写監督デビューを果たし、それ以降遺作となった『わたしのかあさん―天使の詩―』(2024年)に至るまで一貫して社会福祉や男女平等などをテーマにした作品を手がけてきた。
お別れ会は礼拝形式で行われ、淀橋教会主管牧師の峯野龍弘氏が司式を務めた。祈祷に続き、映像で山田監督の生前の姿が映し出され、「混沌とした闇の時代、光を当てて方向を示す羅針盤は『愛』だと確信しています。とりわけ未来を担う子供たちには、大切な問題で『愛なくして何がある』それを伝えたくて、次々に映画を作ってきた」ことが語られた。続いて、遺作『わたしのかあさん-天使の詩-』で音楽監督を務めた朱花(しゅか)さんが、同作に出演した子どもたちと一緒に手話を交えて歌を故人に献げた。
故人の思い出では、俳優の渡辺いっけいさんと小倉蒼蛙(一郎)さんが山田監督との思い出を語った。『母 小林多喜二の母の物語』(2017年)、『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(2022年)、『わたしのかあさん-天使の詩-』の3作品に出演した渡辺さんは、監督が役者を信じ自由に演技をさせてくれたことや、現場では常に明るく元気であったことを振り返った。そして、監督と同年代の自身の父親と重ねながら次のように語った。
「人生100年と言われるが、監督のように魂を燃やして最後の最後までエネルギーを120%出し切る人はなかなかいないと思う。僕もそんなにエネルギーのある人間ではないが、監督からそういう熱いものをいただいたので、力が続く限り役者の道を突き進んでいきたいと今日改めて思った。監督としても女性としてもチャーミングな方でした。さようなら、これからも見守っていてください。ありがとうございました」
山田作品の常連で、『筆子その愛 天使のピアノ』(2007年)などの題字も手がけている小倉さんは、親しみを込めて「ひさこさん」と呼びかけ、山田監督との思い出をユーモアを交えながら語った。そして、社会に対し厳しい目を持ちながらも、作品は常に希望に満ちた明るいものであったと振り返った。「障がいのある子どもを持ったことやクリスチャンであったことが、人々に感動を与え続けた映画の根本だったと思う」と力を込めた後、監督に向けてこう伝えた。
「あなたは映画を作るのではなく『こしらえていく』と言っていた。誰でも苦しみや悲しみを抱えながらも必死に生きている。あなたがこしらえた映画は、そのような人たちに目を向けたものばかりです。愛とは何か、悲しみとは何かを伝えてくれ、そこに希望を見出してくれる人でした。あなたの周りにはいつも笑いがあり、またあなたはとても可愛い人でした。長い間本当にありがとうございました。あとはあなたの仲間があなたの意志を引き継いでくれます。天国で世界の平和と人々の幸せを祈りながらゆっくり休んでください。いい夢見てね」
『わたしのかあさん』『母 小林多喜二の母の物語』の主演を務めた寺島しのぶさんもビデオメッセージで山田監督へお別れの言葉を伝えた。また、『筆子 その愛 天使のピアノ』『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』で主演を務めた常盤貴子さんからは長い弔電が届けられた。
告別説教は、聖書のフィリピの信徒への手紙3章13〜14節を通し、「ひたすら、一筋に」と題して峯野牧師が行った。
遺族代表では、山田監督の次女でありプロデュサーの上野有さんがあいさつ。その中で、「母は、『しょせんは映画。暇な時に見にくればいい』と話していましたが、お客さんから、『生きるのが辛かった時にこの映画を見てもう一度生きる気持ちになった』という言葉を何度も聞き、たかが映画ではないと心から思いました。11作品目の脚本は生前すでに完成しています。必ず作品として世に出します」と決意を述べた。
参列者には『わたしのかあさん-天使の詩-』の原作者で、山田監督の長女が通った大塚養護学校の教員だった菊地澄子さんの娘の姿もあった。菊地さんに代わって参列したと言い、「母は高齢になって監督とのやり取りが難しくなり、代わって私が監督とやりとりをしていました。いつも明るく、前向きで、細かいことにこだわらない人で、時を経ても繋がり続けていたことを嬉しく思います」と語った。